きがるに書くログ

「マカロニグラタン」と同じアクセントです

熱心に寄付をするのは「いいこと」か?

solio(ソリオ)という寄付のサービスがある。

寄付先を個別の団体ではなく「ジャンル」で選ぶのが特徴で、例えば「国際協力」というジャンルに寄付すると、そのお金が「国際協力」のジャンルに登録されている複数の団体へ平等に分配される仕組みだ。

寄付をしようと思ったとき「どの団体に寄付をするべきか迷う」というハードルが現れる。

solioならそのハードルがないから気軽に寄付ができる、というわけだ。

solio.me

先日、そのsolioのnoteを読んで思ったことがある。

note.com

そういえば、ある寄付者さんにも

「のりさんのところに毎月寄付しているこの金額は私は絶対に守りたいと思っています。そのために、働いているし!」

と言われたことも思い出しました。

寄付のために働く。この部分を読んで、ピーター・シンガーの本のことを思い出した。

ピーター・シンガーの『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』には「与えるために稼ぐ」ライフスタイルを実践する青年が出てくる。

その青年はウォール街の仕事で高収入を得て、その半分を寄付に回しているという。

この本を読んだとき、そういうお金の使い方、そういう生き方があるのかと驚いたものだ。

2年くらい前から某NPO団体に寄付をしている。寄付を始めた理由はいろいろあるが、この本からの影響も少しある。

 

その影響もあって、熱心に寄付をするのは無条件にいいことだと、昔は思っていた。

できる範囲でたくさんの金額(おれの場合それでも少額だが)を寄付することに充実感や達成感を覚えてもいた。

いや、いまもいいことだと思ってるんだけど(なのでタイトルへのおれの答えは「うん」なんだけど)、最近は少し考えが変わって、熱心すぎるのも考えものかな、とも思い始めている。

 

(以下、引用元の発言者のかたの考えを否定する気は全くなく、あくまでおれ自身の「寄付観」を振り返って考えたことを書く)

というのも、寄付に熱心なほど、寄付ができなくなったとき罪悪感を覚えたり、無理して寄付額を維持しようとしないだろうか、と思うのだ。

いくらモチベーションが高くても、病気とか失業とかやむを得ない事情で収入が減る、無くなることはあるだろう(「ウォール・ストリートの狼」にその心配はないだろうが、こっちは札幌のおっさんである)。

寄付は余力の範囲でやるものだ。与える人間が倒れては元も子もない。

なのだけど、寄付という行為を大事にしすぎていると「やめどき」を見失ってしまいそうだ。

だから、いまは普通に働けているけれど、熱心になりすぎないほうがいいなと思っている。

(「いや、すぐ転職できるようにスキルつけておけよ」とか言わないでほしい。そういうのホント苦手なのだ)

 

寄付で充実感を覚えること自体は悪いことではない。

ただ、普通の一個人が金額にこだわって寄付を頑張ることは、固執しすぎると自分を苛みかねない危うさがある気がする。

おれは肩ひじを張らずに寄付をしたい。「いつでもやめられる」ことも大事である。

(↓少し前にこんな文章も書いている。寄付はいいぞ。)

blah-blah-blah.hatenadiary.jp