きがるに書くログ

「マカロニグラタン」と同じアクセントです

寄付はいいぞ

毎月、某NPO団体に寄付をしている。

金額はナイショだけど、別に金持ちなわけではなく、むしろ月収十ウン万円の低所得者なので、まあお察しください。

当然、好きでやっている。やってみるとなかなかいいものなので、もっとカジュアルなものになればいいのに、と思っている。

とはいえおれ自身、具体的に寄付のなにがいいのかよく分かっていないのだけど、分かってないなりに考えて言葉にしてみよう。

(寄付と言ってもいろいろあるけど、ここでは主に「社会問題の解決に取り組むNPOへの寄付」を念頭に書く)

 

おれが寄付をする理由を一言で言うなら「お金の使い方として好きだから」だろう。

自分のお金を他人のために使うのは、自分のためだけに使ったり、ただ単に貯金するのとはまた違った良さがある。

さて、具体的になにがいいのか。

 

まずなんと言っても単純に、いや単純すぎるかもしれないが、いいことをすると気分がいい。

「寄付をすると幸福度が上がる」みたいな研究(そういう研究がある。エリザベス・ダン『「幸せをお金で買う」5つの授業』参照)を持ち出さなくても、他人に親切にすると気分がいいという感覚はおかしな感覚ではないだろう。寄付の動機としては不純かもしれないけど、そういうよさはやっぱりある。

 

それから、気になる社会問題に対して、自分なりに行動を起こせるもいい。

「社会問題!」とか言うと真面目くさって聞こえるが、困っている人のニュース(たとえば災害とか子どもの貧困問題とかの話題)を見た時に心が痛んだりすることは、多くの人が経験しているだろう。

そういうとき、心こそ痛むものの、同時に「自分には何もできないな」とも思う。その一方で「何もしないでいいんだろうか」みたいな気持ちも、やっぱりある。

寄付はそういうときに個人が取れる行動の一つだ。その問題に取り組んでいる団体に寄付をする。

心が痛むニュースに対して我々は「心を痛めるだけ」で終わらせることがほとんどだと思う。

実際そうするしかないことも多いだろうけど、寄付という「それ以外の選択肢」を持てる場合もある。

そのためにお金を使うのは良い使い方だと思うし、そういう使い方が好きだ。

 

もちろん個人でできる寄付なんて微々たるものだけど、寄付は、受け取る側に「応援します」というメッセージを送ることでもある。その意味で寄付は金額がすべてではない。

それに、これは完全に憶測だが、寄付を受け取る側からすれば、「一人から出された100万円」と「1000人から1000円ずつ集められた100万円」とでは、受け取る時の感じ方が違うんじゃないか。

「良い・悪い」の話ではなく、両者は金額が同じでも、それぞれ別の大事さがあるのでは、と思うのだ。1000人からの応援は金額とは別の意味で励みになるだろう。

ちなみに「国境なき医師団」は2017年度に81億円、2018年度は89億円を集めたそうだが、メジャードナー(年間100万円以上の寄付者)が占める寄付金の割合はたったの6%らしい(いずれも日本事務局のみでの数字。いとうせいこう『「国境なき医師団」になろう!』より)。

小さいお金が集まって大きいお金になる、というのはなんかイメージしづらいが、本当にそういうものなんだと思う。

 

寄付は大金持ちだけのものではないし、心がキレイで目がキラキラした人たちだけのものでもない。

たとえば「生活保護バッシングがひどいと思ったので貧困支援の団体に寄付する」みたいな、怒りとか反発から来る寄付があってもいい。

なんかこう、うまく言えないが「意思表示」の手段の一つみたいな感じで、もっとカジュアルに為されるものになればいいのに、と思っている。

まあ、なんといってもいいことをすると気分がいいので「寄付はいいぞ」と思うのだ。

 

最後に寄付をいいものにするコツ(?)を挙げるなら「自分の生活を犠牲にしてまでやらない」だ。

基本的に寄付には見返りがない。しかし自己犠牲の意識が強いほど「自分はこんなに与えているのに」という気持ちが芽生えて苦しいだけになる。

だから「ちょっとキツイな〜」とか思いながら出す5000円よりも、無理なく出せる1000円の方がいいと、おれは思う。

P.S.:冒頭で「某NPO」と書いたけれど「国境なき医師団」と「自立生活サポートセンター・もやい」です(関連書籍の感想を書いている↓)。

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