おれたちみんな「見習い」だよな『徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学』感想その2
前に感想を書いた『徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学』の感想第二弾。前は「幸福」に関して印象に残ったところを書いたが、今回は「徳」に関して、これは大事だなと思ったことを書く。
第一弾↓
そもそも、「徳」ってなんなのか?
本書では具体的な徳目の例として「勇敢さ」や「気前のよさ」などが登場するのだけど、要するに「徳」とは、そうした振る舞いを、気まぐれでなく「一定して」行う傾向性である。
その際に「具体的な思考を経ずに」というのがポイント(の一つ)のようだ。勇敢な人は勇敢に振る舞うべき場面で「えーと、こういうときに勇敢な人間は……」などと考えない。「あっ、子供があぶない!」と思ったら即座に助けに行く人が、勇敢な人なのだ。
だから、単に一定して有徳に振る舞うのでなく、(これは本書で使われている言葉ではないが)「心から」有徳に振る舞う傾向性である、と言えるだろう。
本書の内容でとくにいいなと思ったのが、徳は「技能」に似て、実践的に学ぶことで身につけるものである、という主張だ。
ピアニストにも「名ピアニスト」から「初心者ピアニスト」まで、上手さの段階が人の数だけあるように、人間の徳についても「有徳な人」から「そうでもない人」まで無数の段階がある。
人々はピアノの技能と同じように、勇敢さ(あるいは気前よさetc.)を親や教師やその他の人から学び、そして実際に勇敢に(あるいは気前よくetc.)振る舞うことで、勇敢な(あるいは気前よいetc.)人間になっていくのだ(ピアノも実際に弾かないとうまくならないもんね)。
その一方で本書は、真の意味で徳を身につけることを「絶望するほど」(150P)高い理想として置いている。
というのも徳倫理学の伝統には「ある一つの徳をもつためには、その他のすべての徳をもたなくてはならない」という「徳の統一性」と呼ばれる考えがあるらしいのだ。なので本書(というかアリストテレス)に言わせれば「一つでも徳を欠いているなら、一つも徳をもっていない」(143P)ことになる*1。
この考えに従えば、我々はどの徳も真の意味では身につけられない。
しかし、これも本書がいう通り、それでも我々は日常的なレベルで勇敢な人を「勇敢な人」と何の差し支えもなく呼んでいる。名ピアニストでなくてもピアニストはピアニストなわけで、完璧に勇敢な人間以外は勇敢な人間でない、というわけではない。
真の有徳者はあくまで理想であり、我々はそのレベルには達しない日常的なレベルで徳を身につけたり、慢心して徳を失ったりしているのだ。
このことに関して、深く頷いたのが以下の部分。
徳の統一性を主張することは、日常レベルの徳の存在を認めることの妨げにも、そのレベルの徳をそなえている人々を尊敬することの妨げにもならない。しかし、その主張は私たちに、徳を自負したり、他者の徳に容易に満足したりすることがないよう要求し、手本となる人物にも欠点はあると考えると同時に、そのことに分別をもって対応することを、徳の進歩という考えを捨て去るような未熟な対応をしないことを要求するのである。
(152P)
「徳」という言葉を使おうと使うまいと、これがあるべき人間理解だと思う。完璧な人間などいなくて、みんな永遠に「見習い」なのだ。
こういう人間理解に立てば、たとえば勇敢に(「やさしく」でも何でもいいが)振る舞うべき場面でそうできなかったとき、必要以上に落ち込むのではなく「次はうまくやれるよう頑張ろう」と思えるだろう。立派な人と目されている人間にボロが出たとき「ほら見ろ、やっぱり」みたいな安易なレッテル貼りをしなくなるだろう。
立派な人間にも欠点があるという(当たり前の)ことに気づけば、他人を「善人or悪人」の単純な二分法で判断しなくなる。ただ責めるだけでない、寛大で建設的な対応を取れるのではないか。
そういうわけなので(?)、些細なことで他人(や自分)にムカついたら「おれたちはみんな見習いだから……」と心のなかで唱えることにしよう。寛大で謙虚で、ポジティブにもなれる人間理解だと思う。
*1:たとえば気前のよさにしても、「気前よく与える」ことはただ単に与えることではなく、「相手に必要なものは何かを考えること」や「押し付けがましくない態度を取ること」などが必要であり、そのためには気前のよさ以外の諸々の徳も必要になる。