きがるに書くログ

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「役に立つ」ものばかり求める危うさ『科学と非科学 その正体を探る』

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「なんでも知っている」と豪語する専門家より、分からないことは「分からない」と正直に言ってくれる専門家の方が信頼できる。本書からは後者の像が浮かぶ。

科学者による本なのに、科学の素晴らしさではなく、その限界について書いているのが面白い。 

「科学にわからないこと」を軸に、科学が抱えるジレンマや人間と科学の関わり方、さらには「人間が本当の意味で自分の人生を生きるとはどういうことか」みたいな大きいテーマにまで考えを巡らせるエッセイだ。

 

我々の多くは科学に絶大な信頼を置いて暮らしているけれど、「意外と」と言うべきか「当然」と言うべきか、世の中、科学をもってしても白黒はっきりつけられることばかりではないようだ。

その一方で、社会からは白黒はっきりつけて分かりやすく説明してほしい(特に食品の安全性とか)という要請があって、その板挟みにならざるを得ない科学の立ち位置が語られている。科学者も大変だ。

 

本書の後半では、日本の研究現場を取り巻く問題に言及している。

この後半部分に「無駄なもの」「定量的に評価できない・しづらいもの」に関して考えさせるものがあり、印象に残った。

いわく、現在の日本の科学研究には、研究者の業績を定量的に評価し、その評価に応じて予算を割り当てる「選択と集中」の方針がとられている。

この「選択と集中」の問題点は、研究者が「自分が何を知りたいか」ではなく「評価されるか、されないか」を基準に研究対象を(生活のために)選ぶことになるところだ。

科学は、生物の進化における「変異」のようなものだと著者はいう。

本当に大切なことは、実はその環境下で生きることには何の役にも立たない、「無駄」な変異をランダムに起こし続け、それを許容することなのである。単純な話ではあるが、他の環境で有利に働く変異は、現環境下では基本的に「無駄」なのだ。それを許容して生み出し続けることが、現状とは違う環境で生存できる新しい生き物を生み出し、簡単には全滅しない強靭性を生命に与える。

その時代の社会からのニーズがある研究ばかり優遇され、ニーズがないと見なされた「無駄な」研究ができない環境になれば、そこから新しいものは生まれない。

行き過ぎた「選択と集中」は、新しいものを生む「変異」の役割を科学から奪う、というのが著者の指摘だ。

 

そういえば、別の本でこんなエピソードを読んだことがある。

19世紀、電磁場の基礎理論を確立したファラデーは、あるとき「これが人の何に役に立つのか?」と聞かれ、「これは基礎研究なので人の役に立つことはありません」と答えたそうだ。

ところがその電磁場の研究が、今では電気を使うテクノロジー全般に利用され、とんでもない恩恵をもたらしている。

我々はつい目に見える成果を求めて行動しがちだけれど、測定できる数値に基づく判断は浅いものにならざるを得ないのかもしれない。

個人のレベルでも「生産性」みたいなのを大事にしすぎるのは考えものだと思うし、社会全体としても役立たなそうなものに寛容であるほうがいい。何が無駄かなんて、そう簡単にはわからないのだから。

 

ファラデーのエピソードはこの本で読んだ↓