きがるに書くログ

「マカロニグラタン」と同じアクセントです

歳を取ってよかったこと

人間、歳を取ると疑い深くなってひねくれるものだと思っていたけれど、むしろ素直になるのかもしれない。まだ三十ウン年しか生きていないものの、20代までの、ぴっちぴちの若者時代をすぎた身として、そう思う。

というのも、ボランティアや社会活動をしている人を、以前よりも素直に「えらいなぁ」と思うようになったのだ。

昔は人並みに「裏がありそう」とか「そんなことしても何も変わらないでしょ」とか思ったものだけど(これが「人並み」だと思っている)、最近はもう素直に「えらい!」である*1。年齢のせい「だけ」ではないだろうが、歳を取ってよかったことのひとつに数えてよい。

 

数年前から某NPO団体に(少額ながら)毎月寄付をしているのだけど、その理由も「寄付先の団体がうまく行ってほしいから」みたいな感じになってきた(昔はもっと「いい社会にしたい!」みたいな感じだった。最近とみに「えらい!がんばって!」が強くなっている)。

寄付をするとき、「(支援団体からの)支援を受ける人たち」のことを思って寄付をする人が多いと思う。だけど、おれが自分の寄付金の行先を考えるとき、真っ先に浮かぶのは「支援を受ける人たち」よりも「寄付先の団体の人たち」なのだ。なんかもう「職員さんの給料にでもしてくれ」みたいな気持ちで寄付をしている。おれの寄付は「推し活」じゃないだろうか。

これがいいことなのか、そうじゃないのかは、わからない。しかし物の本*2によると、慈善団体の成功には、単に「困っている人のためにお金を使う」のではなく、適切に人件費などの諸経費にもお金をかける必要があるらしいから、そういう観点から為される寄付も、あってよいと思う。

 

……などと考えている自分を顧みると、寄付の「き」の字もなかったおれが寄付ですか、と改めて思う。思いもしない変化が起こるもんである。もっと歳取ったらどうなるかは知らないが。

*1:もちろん疑うこと自体は健全だし、健全に疑うべきである。

*2:物の本①:『寄付をしてみよう、と思ったら読む本』コラム「寄付のお金を人件費に使っても良いか」 物の本②:『測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』13章「慈善事業と対外援助」