きがるに書くログ

「マカロニグラタン」と同じアクセントです

どうせ死ぬのになぜ生きるのか『幸福と人生の意味の哲学 なぜ私たちは生きていかねばならないのか』

最近読んだ本でよかったのがこれ。「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」を考えずにいられない人は読むといいと思う。

本書の議論は「幸福であること」や「人生が意味を持つこと」の困難性(その理由は第1章、第2章でいろいろ論じられるけど、なにせどうせ死んじゃうからな)を論じるところからスタートする。とはいえ「それでも『幸福』や『人生の意味』は可能だ」というのが本書の主張で、終盤では「宗教性」「超越」「信仰」といった領域に話が及ぶ*1

この終盤部分が、最近のおれの関心と相まって特に興味深かった。人生への、人生のいわば「内側」からの意味づけはどうしても「どうせ死ぬのだから」に行き着く。それを乗り超えるには「外側」からの、つまり宗教の領域からの意味づけが欠かせないんじゃないか、的なことを最近考えている。

また、自分の価値観を絶対視せず留保をつける姿勢(本書でいうところの「アイロニー」)の必要を説くところも好ましい。

「人生の意味とは〇〇である」という、アイロニーを欠いた言い切りでは人生の意味は捉えられない。人生の意味を直接的に語ろうとしても、というか語ろうとすればするほど、人生の意味は「逃げる」。常に語り漏らされる「外部」が残るのだと、本書は述べる。

人生の意味は特定の理論で言い表せるものではないという主張には説得力があるとおれは思うし、答えがないであろう問いに対して、「答えがない」という寄る辺なさに耐える道を選ぶ、というのは(寄る辺ないように見えて)地に足のついた態度だと思う。

信仰とアイロニーという一見矛盾する両者の関係を、中島敦の小説『悟浄出世』を引き合いに「真の信仰は疑いすらもその一部としている」と論じるところでは、禅僧の南直哉さんが著書で自分の信仰を「賭け」と表現しているのを思い出した*2。疑いすら織り込んだうえでの信仰は、科学的世界観に馴染んだ現代人にも可能な信仰の形(のひとつ)だったりしないだろうか。

*1:ここで言う宗教性とは本書いわく「超越をそれとして尊重するタイプの」宗教性であり、特定の宗教に基づく宗教性ではない。なので神様とか仏様がナントカみたいな話は本書には出てこない。

*2:「さらに、もう一つの『信じる』態度がある。これは『疑い』を当然の前提として『信じる』。つまり、否定も排除もせず、『疑い』を受容して『信じる』。これはもう『信じる』とは言わない。通常は、『賭ける』と言う。(中略)『信じる』行為そのものを『疑う』ような人間が、宗教にコミットしようというなら、この『賭け』以外に方法がないのではないか、私はそう思う。そして私は仏教に『賭け』、いまも『賭け』続けている。」(南直哉『仏教入門』)