きがるに書くログ

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徳倫理学の昔と今とこれから『ケンブリッジ・コンパニオン 徳倫理学』

「徳」への興味はいまだ継続中で、また徳の本を読んでしまった。有徳者になってしまうぞ。

書名の「ケンブリッジ・コンパニオン」とは「ケンブリッジ大学出版局が一九八九年より刊行しているシリーズの名称」(あとがきより引用)で、「その分野の第一線で活躍している研究者を執筆陣として揃えることで、(中略)その分野の全体を俯瞰できるガイドブックを刊行する」(同)シリーズだという。

位置づけとしては「入門書」らしいのだけど、新書の「〇〇入門」的な本と比べると難しく、おれには背伸びした読書だった。ページ数も560ページと分厚く、読み切るのに一ヶ月かかった。

 

第1章から第6章までを割いて徳倫理学の歴史が論じられていて、その中に(西洋だけでなく)中国の儒教まで含まれている。また、主に今日の徳倫理学を論じる7章以降では、生命倫理学(第9章)や環境倫理学(第10章)、さらにはビジネス倫理(第11章)への徳倫理学的アプローチが論じられていて、いろんな意味でカバー範囲が広い。

倫理学功利主義や義務論よりも「複雑さを複雑なまま受け入れる」みたいな性格が強いように思える(功利主義のことも義務論のことも知らないので、分かったようなことは言えないが)。

いわく徳倫理学は、意思決定の際に誰もが利用できる「正しい行為の理論」を規範理論に期待するのではなく、「徳を身につけることによって、とりわけ思慮(practical wisdom)という徳を身につけることによって、現実生活の諸問題に対処できるようになるということを強調する傾向にある」(270P)という*1

人生にマニュアルなどなく、思慮を駆使して(アリストテレス言うところの)「しかるべき」選択をしてよく生きたまえ、ということだろうか。その「しかるべき」ってどう決まるんですか、と聞きたくなるのが人情だが、それを追求すると徳倫理学とは別の主義になりそうで難しいですな。

あと、間違った行為について(「その行為のどこに誤りがあるか」ではなく)「どのような種類の人がその行為をなすだろうか」という論じ方が徳倫理学にはあるそうで、そういう観点があるのかと新鮮だった。

地球最後の生き残りの人間が、これまた唯一残ったアメリカスギを「楽しそうだから」というだけの理由で破壊したとする。そんなことをしても、もはや誰も困らないが、それでもそういうことをする人には、なにか間違ったところがあるのである。

 

それにしても本書、税込みで5720円である。5720円の本を買うようになりましたな、おれも。

(お金の話ついでに、本書の翻訳料は全額UNICEFに寄付される、とあとがきに書いていて感心した。寄付はいいぞ。

blah-blah-blah.hatenadiary.jp

 

*1:とは言え、徳倫理学でも正しい行為の理論化は試みられていて、第8章で論じられる。ただし、それがいつでも「正しい行為の手引き」になると考えられてはいないようだ。