きがるに書くログ

「マカロニグラタン」と同じアクセントです

保守主義から謙虚さを学ぶ 『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』(宇野重規)

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先日読んだ『Weの市民革命』は、マイノリティの権利の向上などを求める「リベラル」の人たちが主人公の本だった。

blah-blah-blah.hatenadiary.jp

じゃあ、その反対の「保守派」というのはどういう思想なんだろうと気になって本書に手を伸ばしてみた。

なにせ『Weの市民革命』ではBLM(Black Lives Matter)支持を表明したナイキへの抗議としてナイキ製品を燃やしたりしている(極端な人たちの行動なのは分かるけれど)。

ぼくは本当に政治がわからぬので、漠然と「変化を嫌う」「外国人に対して厳しい」くらいの印象しかなかったのだけど、どうやらそういう理解では単純すぎるようだ。

 「変化を嫌う」思想ではない

本書はタイトルの通り保守主義について解説した本だ。

本書を読んですぐ、先述のぼくの保守主義に対するイメージはだいぶ間違っていたことがわかった。

本書によると保守主義は18世紀英国の政治家エドマンド・バークを「本流」とし、

①具体的な制度や慣習を保守し、②そのような制度や慣習が歴史の中で培われたものであることを重視するものであり、さらに、③自由を維持することを大切にし、④民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革を目指す。

という点を特徴とする。

保守主義は「変化を嫌う」思想ではない。むしろ変わることを厭わない。

それまで続いてきた制度や慣習に基づいた「秩序ある漸進的改革を目指す」思想なのだ。

反対に、過去との連続性を無視した急進的な改革が、保守主義の批判の対象になるらしい。

人間の「理性」を疑う 

そんな保守主義の思想のなかで、とくに印象に残ったのが「理性」に懐疑的なところだ。

理性を疑うというと、とんでもなく頭の悪いことに思えるが、そうではない。

そもそも、保守主義は「進歩主義」という思想を批判する立場として生まれた。

進歩主義とは、人間の本能ではなく「理性」を駆使して、合理的に社会を変革できると考える立場だ。

そこには「人間の知は無限で、すべてを合理的に判断できる」という前提がある。

これに対して保守主義は、人間は不完全な存在で、すべてを合理的に判断できるなんて「おごり」だと考える。

だから理性的かつ合理的(と人間が考える)判断のもとに社会を改革しようとしてはいけないというのだ。

「偏見」の役割

では、理性が信頼ならないなら、どうしたらいいのか?

先述のバークは、社会を保存・改良するためには理性でなく「偏見」や「習慣」を利用すべきと説いた。

偏見だなんて、これもまた首を傾げそうになるが、つまりこういうことだ。

バークに言わせると、人間の理性には限界があるから過信してはいけない(理性そのものは否定しない)。

一方、偏見や迷信と呼ばれるものの中には、歴史的に蓄積された経験が反映されていることが多い。

その中の有害な部分を取り除き、有効な部分を活用しよう。

そうやって、限界のある理性を経験的な蓄積で補完しようというのがバークの保守主義だという。

こう見ると、保守主義というのは「頑固」というよりは「堅実で現実的」な考えなのだと分かる。

「自分は間違っているかもしれない」

本書はこのバークからスタートして現代へと保守主義の系譜をたどるのだけど、やはり現代に言及した部分が「自分ごと」として考えやすい。

本書によると現代では、それまで続いてきた「進歩主義 vs 保守主義」という図式がゆらぎつつあるという。

というのも、進歩主義が掲げる「進歩」の理念が、楽観的には信じらなくなってきたからだ。

たとえば科学の進歩にしても、そのマイナス面(環境問題とか)がよく注目される。

進歩主義が力を失うと同時に、それを批判する保守主義も批判する相手を見失いつつある。

そんな「未来が見えない」時代に、保守主義の「自分は間違っているかもしれない」という謙虚さが英知になり得るだろうと著者は言う。

たしかに、行動経済学や心理学などの分野で、人間の判断の不合理さが明らかになり始めている。

「理性の限界」という話は、昔よりもいまのほうが説得力があるのではないか。

答えのない時代だからこそ、「合理的な」判断を疑い、地に足のついた選択を重ねる。

自分自身が保守主義者になるかどうかは別として、学ぶところは多そうだ。

 

 

「消費者」が世界を変える 『Weの市民革命』(佐久間裕美子)

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革命と聞けば「フランス革命」とか、教科書に載っているような出来事しか思いつかないけれど、どうやら、いままさに革命は起こっているらしい。

『Weの市民革命』は、現在アメリカで起こっている大きな「革命」の現状を伝える本だ。

これが「アメリカではこんな事になってるのか」と驚く一方、「世界はどう変わっていくんだろう」「自分はどんなふうに生きればいいだろう」と考え込んでしまう本だった。

社会を変えつつある「We」とは

タイトルの「We」とはミレニアル(1981年~1996年生まれの世代)とジェネレーションZ(1997~2000年以降生まれの世代 / 諸説あり)の総称だ。

この2世代は人種差別・性差別や環境など、社会問題への意識が高く、「圧倒的にリベラルかつプログレッシブな価値観」という点で共通している。

いま、アメリカではこの「We」が社会を大きく動かしつつある。

それは、2001年のアメリカ同時多発テロ事件や、2008年に始まった金融危機が引き起こしたのと並ぶくらいの、またはそれ以上の規模の文化シフトだと著者は言う。

国内最大の購買力

なぜ、アメリカでは30歳前後の若い人たちがそんなに影響力を持つのだろう?

どうやら、日本とは違うアメリカの世代別人口構成に理由があるらしい。

アメリカのミレニアルは現在、国内最大の人口規模をほこり(そう、高齢者ではなくミレニアルなのだ)、世代別の購買力もトップだという。

この購買力を武器に、自分が支持しない企業の商品への不買(ボイコット)や、支持する企業への買い支え(バイコット)といった、消費を通じた社会運動を展開しているのだ。

「インターセクショナリティ」がキーワード

いま起きている変化を象徴する概念に「インターセクショナリティ」がある。

これは平たく言えば「自分の権利を求めるのであれば、他人の権利のためにも闘わなければならない」という考えだ。

この考えによって、ひとつの社会問題は単発的なものではなく、他の社会問題と地続きなものとして理解される。

そして、ひとつの社会運動が他分野の社会運動にも連鎖することが、いま起きている「革命」の特徴だ。

そのことをよく表しているのがブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動だろう。

きっかけは2020年5月25日、黒人のジョージ・フロイドさんを白人の警官が殺害した事件だ。

白人の警官が無抵抗の黒人の首に足をかけ死に至らしめる映像がSNSに拡散され、警察の黒人差別に対する抗議運動が爆発した。

BLMは警察だけでなく企業のレイシズムにも反応し、多くの企業でマイノリティ従業員の待遇を見直す動きにつながった。

ファッション業界にも連鎖

さらにファッション業界にも連鎖し、先進国のブランドが途上国の安価な労働力に依存する、業界の慣習的な「搾取」の構造が指摘され始める。

白人がトップを占める業界のピラミッドの底辺を支えるのは、無数の有色人種の女性労働者だ。

そうした現状から、労働者の人権や生産環境についての情報開示を企業に求める動きが世界的に広まっている。
(アウトドアブランドのパタゴニアなんかは製品ごとに生産工場の名前まで出しててすごい)

こんなふうに、一つの運動が連鎖的に他の運動につながる「インターセクショナリティ」が、世界を揺り動かしているのだ。

このアメリカでの変化を日本で肌に感じる機会はまだ少ないけど、きっと日本にも及ぶのだろうなと思う。

いまがどんな時代なのか、本書を読んで知らされたような気がした。

解像度を高くすること

ちなみに、インターセクショナリティという言葉は本書で初めて知った言葉なのだけど(不勉強)、調べたところ思ったより複雑な概念らしい。

www.vogue.co.jp

ぼくはこれを、個々人が受けている抑圧を大雑把なカテゴリに当てはめるのではなく、高い解像度で認識するための概念と理解した。

一口に「黒人差別」というのでは不十分で、その中には黒人の男性も女性も、性的マイノリティや障害を持った人もいて、それぞれが違う抑圧を経験していると認識すること。

「一方を放置したまま他方だけに反対することはできないはずだ」と考えるから、他人の権利のためにも闘う、ということだろうか。

どんな消費者でありたいか

本書が伝えるのは、BLM運動をはじめ、格差や環境問題に関する取り組みなど、世界をよりよい場所にしようという動きだ。

こうした動きはもちろん応援したい。

その意味で本書は前向きな気持ちになる本だけど、一方で耳の痛い事実を突きつけられる本でもある。

自分が享受している便利で快適な生活は、たいてい遠い世界の誰かや地球環境から何かを奪って成り立っていることが分かるからだ。

なにせ牛肉を食べれば環境にダメージを与えるし、フリースを洗えば海を汚すし、服は途上国の人を劣悪な環境で働かせて作られているかもしれない。

そんな現実と向き合わざるを得ない時代に生きているのだなと思うと、(白状するけれど)襟を正すよりも耳を塞ぎたくなる気持ちが強い。

それでも、問題解決に取り組もうとする企業が増えてきているのは明るい話題と言えるだろう(先に触れたパタゴニアもそのひとつだ)。

自分と世界は思いのほか繋がっていると自覚して、価値観の合う企業を選んで消費することが、いち消費者としてできることなのだろうなと思う。

 

Weの市民革命

Weの市民革命

 

 

人生はむなしい 『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』

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「どーせいつか死んじゃうんだからさ、気楽に生きようよ!」

こんな感じの人生観を披露する人は、正直苦手だ。

こういう人はどうせ、なんだかんだ生きるのがうまくて生き延びる力がある人にちがいない。だから「気楽に」生きられるのだ。

一方、こういう人生観はどうだろう。

「生きるどんな理由もなければ、ましてや死ぬどんな理由もない――齢を重ねるにつれて、私はますますそう思う。だから、根拠などまるでなしに生き、そして死のうではないか。」

(『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』より引用)

言ってることはそんなに違わない。それでも後者には惹かれるあなたには、この本が力になるだろう。

 「ペシミストの王」に学ぶ

本書は「ペシミストの王」と呼ばれる思想家シオランの思想を紹介する本だ。

ペシミストとはペシミズムを、つまり「この世界を最悪なものであるとみなす考え方」「生きることを嫌悪する考え方」を支持する人のことだ。

要するにとても暗い思想の本である。

でも、この暗さが却って人生を、うまくいかないことでお馴染みの人生を生きていくヒントになっているのだ。

年をとったせいか、ぼくは昔ほど「生まれてこなければよかった」と思わなくなった。

それでも、心に大事にしまっておきたくなる言葉に満ちた「生きる知恵」を授けてくれる本だ。

人生はむなしい

本書(とシオラン)は、人生をあらゆる角度から繰り返し否定的に論じる。

そのなかでも究極的なのは「人生はむなしい」と語る第五章『人生のむなしさ』だろう。

この章は最初から最後まで「人生はむなしい」という内容の章だ。

人生がむなしいこと自体には薄々気づいている人は多いだろう(多いよね?)。

この章を読むと、あぁやっぱり本当にむなしいんだ、と改めて思う。

そう、人生はむなしい。

だって、どんな生き方をしたって最終的にはすべて無になるのだから。

苦労し続けて死んでいくのはむなしい。しかし成功しても最後は「無」に行き着くのだから、どのみちむなしい。

これは一人の人間の人生の話にとどまらない。

後世に語り継がれるような偉業を成しても、地球が滅びてしまえば、それきりだ。

シオランくらいになると宇宙規模で世界を見て、そしてやっぱり人生をむなしがっている。

けさ、ある天文学者が、宇宙には何十億個かの太陽がある、と喋っていた。聴いたあと、私は洗面をやめてしまった。いまさら顔なんぞ洗っても仕方がないではないか。

(本書より引用)

気が滅入るだろうか。でも、ここからが少し元気になれる(かもしれない)ところだ。

シオランいわく、「死は有効性と無効性の両方を正当化する」。

これは要するに「どうせ死ぬのだから、何をやったって構いやしない」ということだ。

この言葉、投げやりに見えるが実はかなりポジティブじゃないだろうか?

我々の日常には「やりたくないけどやってること、やらなきゃいけないこと」があふれている。

最たるものが仕事だし、人付き合いとかもそうだろう。

でも「何をやったって構いやしない」のなら、「何をやらなくたって構いやしない」とも言えないだろうか?

こういう考えは、ある種の「呪縛」から逃れる力になると思う。

逆に、一度きりの人生だからと思い切ったチャレンジに踏み込むこともできる。
(もちろんその場合も最後は「無」に行き着くことを承知の上で、だけれど……)

いずれにせよ、「あれをやれ、これはやるな」という世間の圧力から距離を置くことは、生きることを楽にするだろう。

 「人生の勝ち負け」はむなしい

人生の「勝ち負け」についても同じだ。シオランはこう言っている。

たぶん、君は勝つかもしれぬ。それに君が負けるにしても、いずれにしろどうでもいいではないか。この世に勝ちとるべきものが、失うべきものがあるだろうか。

(本書より引用)

よく「人生に勝ち負けなんかない」と言うけど、違うのかもしれない。

本当は「勝とうが負けようがどうでもいい」のかもしれない。この言葉も大事に胸にしまっておこう。

なぜシオランは響くのか 

「どうせ死ぬんだから真面目に考えるな」というのは、それほど新しい考えではない。

だけど、ペシミズムの観点からそれを言われると妙に響くのはなぜだろう?

ぼくが思うに、ただポジティブなだけの言葉にはない「真実味」がそうさせるんじゃないかと思う。

普通、人を元気にしようとする言葉は、物事の明るい面を見るように我々を仕向けるだろう。

しかし、これは多くの人が実感していると思うけど、元気になるにもエネルギーが要る。

落ち込んでいればいるほど、「元気出せ」と言われるとキツいのだ。

そういうときはポジティブな言葉が空虚に聞こえて、信じられない。

一方、落ち込んでいる人にとって、とことんまで暗いシオランの思想には真実味がある。

いや、落ち込んでいる人だけじゃないだろう。たぶんこの世は苦しみがデフォルトだ。

仏教にも「一切皆苦」とか「怨憎会苦」とか、生きる苦しみを表した言葉がある。

その意味でシオランの言葉には空虚さがない(いや、むなしいと言い続けてるけどね)。だから響くのだ。

ペシミズムを宿して生きる

とは言え、ペシミストになるのも簡単じゃない。

嬉しいことがあれば、人生のむなしさなど忘れて舞い上がったりしちゃうものなのだ。

というか、別に本書は「ペシミストになろう!」と勧誘する本でもない。

本書を読んだあとでも、ぼくは死ぬまでに嬉しい出来事がたくさんあってほしいと思っている。たぶん多くの人がそうだろう。

それでも心のどこかにペシミズムを宿すことは、生きることを楽にするはずだ。

実際には、うまくいかないことのほうが多いだろうから……。

 

 

寄付はいいぞ

毎月2万円、寄付をしている。手取りの10%以上の額だ(一行目から低年収がバレてしまった)。

毎月寄付なんかしている人は少数派だろう。

でも個人的には、もうちょいみんな気軽にやったらいいのに、と思う(もちろん、できる余裕がある人はという話)。

寄付のなにがいいのか、自分なりの考えを書いてみる。興味を持つ人がいてくれたらうれしい。

※この記事では主に街頭募金などの寄付ではなく、より積極的に自分で寄付先を選んでする寄付について書きます。

街頭募金を否定はしないけど、自分から積極的に寄付先を選ぶほうが寄付の良さを感じられると思います。

「気になる問題」があるのなら

たとえば病気とか貧困とかで苦しんでいる人のニュースをみた時に、なんか考え込んじゃうことって、ないだろうか?

つらくなったり、いまの社会には問題があるよなぁと考えたりした経験がある人は、寄付の良さが分かると思う。

というか、いまの社会に問題がないと思う人はほぼいないだろう。

貧困、差別、環境などなど、その人なりの「気になる問題」を持つ人も少なくない(はず)。

でも、大抵の人は「なにかしなくちゃと思うけど、何をすればいいかわからない」状態じゃないだろうか?

ボランティアとかはハードルが高い。そもそも時間が取れない。

部屋から一歩も出ずにできる支援

そこで寄付だ。そういう人にこそ、寄付というお金の使い方があるよとお伝えしたい。

自分が気にしている問題に取り組むNPO非営利団体)に寄付をしよう。

ぼくの理解では、国がやってくれないなら自分たちでやろうぜ、というのがNPOだ。

社会のあらゆる問題に取り組むNPOが世界中にある(日本には約5万団体)。

寄付とは、自分が行動できないかわりに、実際に行動している人たちにお金を託す行為だ。

ボランティアとかデモとかに参加するのはハードルが高い。

でも寄付ならできる。それも部屋から一歩も出ずに。こんな手軽にできるアクション、他にないじゃないか!

「推し」を見つけよう

寄付の良さをもうひとつ挙げるなら、「推しを応援できるうれしさ」もある。

NPOの人の本とかツイッターとか読むと、本当に、懸命に問題へ取り組んでいるのが分かって心を打たれる。

単純に応援したくなるのだ。

好きな人や共感できる人を応援するうれしさや楽しさを知っている人は多いだろう。じつは寄付にもそういう側面がある。

意思表示のチャンネルを増やす

「選んで応援する」という意味で、寄付は選挙に似ている。

でも、選挙のときっていつもゲンナリするだろう。「この中から選ぶの……」と毎回思う。

その点、寄付は選挙区の縛りもないし、掲げる「公約」も明確だから、応援したい人を見つけやすいのがいい。

よく、投票に行くことは意思表示をすることだと言われる。

でも寄付という選択肢を知ると、意思表示の手段は投票だけでないことに気づく。

寄付は、意思表示のチャンネルを増やす手段とも言えるだろう。

寄付先の選び方

で、どこに寄付をするか。

冒頭に書いたとおり、寄付の良さを感じられるのは「自分で積極的に選んだ団体にする寄付」だ。

なので、自分が関心のある問題に取り組む団体を選ぶのが一番だと思う。

ニュースとかを見て心が痛んだ問題があれば、その問題に取り組む団体を探そう。

団体の探し方はシンプルにググるのがいい。

「〇〇(社会問題) NPO」とかでググると主要な団体のページが出てくる。

個人的な感覚だけど、この方法だとよくわからない怪しい団体はあまり出てこないので、これが一番いいと思う。

ググる以外だと「GoodMorning」という、社会問題に特化したクラウドファンディングのサイトもある。

camp-fire.jp

共感できると思う団体があったら、気軽に寄付してみてほしい。

単発でも毎月でも、1000円くらいから寄付できる団体が多い。

定額寄付はいいぞ

もちろん単発の寄付でもいいけど、個人的には少額でも毎月寄付するほうが、寄付の良さを実感できると思っている。

やっぱり、継続して支援しているほうが、その団体を応援しているぞという気持ちが強くなるのだ。

毎月寄付をすると、その団体の情報をチェックするようになる(ちゃんと使われてないとイヤだから)。

すると、

  • 「住まいのない人に食料を配布しています」
  • 「今年は貧困家庭の子どもの学習支援を〇〇人が利用しました」
  • 「今年は〇〇件のマラリア治療を行いました」

というような活動情報が入ってくる。

世界を少しでもよくしようと活動している人が本当にいて(本当にいるんですよ!)、自分もその活動に参加できると分かる。

ぼくが思うに、寄付の良さを一番感じられるのはこういうときだ。

大河の一滴」になるしかない

寄付をしている人間の実感として、寄付は心がきれいで目がキラキラした人だけのものではない。

もっと不満とか怒りからくる寄付もあっていい。

それから、寄付は一部のお金持ちだけのものでもない。

2017年の日本人の寄付額の中央値は4000円だそうだ。小さいお金の集まりが大きいお金を作っている。

言うまでもなく、一人でできることは微々たるものだ。

でも、そもそも一人で社会を変えることなど誰にもできないだろう。

誰にもできないのだから、「何もしない」ではいたくないなら、「大河の一滴」になるしかないのだ。

意外といいものですよ、なってみると。

寄付をしてみよう、と思ったら読む本

寄付をしてみよう、と思ったら読む本

 

↑これ、いい本です。寄付について包括的に知るにはこの本がいい。NPOが社会に果たす役割もよく分かる。 

「社会を変える」お金の使い方――投票としての寄付 投資としての寄付

「社会を変える」お金の使い方――投票としての寄付 投資としての寄付

  • 作者:駒崎弘樹
  • 発売日: 2010/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

↑これもいい本だった。

ひとり親向けの病児保育事業を手掛けるNPO法人「フローレンス」代表・駒崎弘樹さんの著書。

こういう、ひたむきな人がいることを知ると、寄付という行為に対する考え方も変わる。

「シャワーがめんどくさい」を克服したらQOLが上がった

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日常生活で一番の面倒事はシャワーだと思っている。

「明日も仕事だしシャワー浴びなきゃだけど面倒だな~」とか言いながらズルズルと先延ばし。

いよいよ寝なきゃいけない時間が迫って、あわてて浴びて、結局寝る時間も遅くなって……という、一日の締まらない終わり方に覚えのある人は多いだろう。

でも実は、ぼくは二年くらい前にシャワーの面倒くささを乗り越えた。

乗り越えてからは生活の質が明らかに上がったと感じている。

きょうはその方法を書いてみる。

「嫌いな食べ物は先に」理論

ぼくがシャワーの面倒さを乗り越えた方法はシンプルで、「帰宅後に即浴びる」これだけだ。

外出から帰ったら即シャワーへ直行。嫌いな食べ物を先に食べちゃうのと同じだ。

これをやるだけで、もう寝る準備が8割くらい整う。寝るまでの時間を好きに過ごせるのが最高だ。

脱ぐ、浴びる、着る

もう伝えたいことはほぼ伝えっちゃったのだけど、コツはいくつかある。

まず第一に、帰宅直後の行動に、ひと工夫を加えることだ。

その工夫とは、「外出着を脱ぐ→部屋着を着る」という流れの中に「シャワーを浴びる」を挟み込むこと。

つまり「外出着を脱ぐ→シャワーを浴びる→部屋着を着る」というふうに変えるのだ。

帰ったらできるかぎり、どの行動よりもこの一連の流れを優先しよう。

「疲れたからちょっと座る」とかよりも、まず「シャワー」が優先だ。

晩ごはん食べてからなんて論外である。お腹いっぱいになったらシャワーなんか浴びられるわけがない。

面倒くささを乗り越える

「いや、まさにそれが面倒なんすよ」という人もいるだろう。

疲れたら座りたいし、どうしてもシャワーに直行できない事情もあるはずだ。

そこを乗り越えるには、少しだけ意志がいると思う。

でも、その意志はたぶんあなたが思っているほど多くは必要ない。

バカバカしいほど小さい目標

『ぼくたちは習慣で、できている』という本によると、習慣をつけるには「目標はバカバカしいほど小さくする」のがコツだという。

例えば、ランニングの習慣をつけるには、「〇〇km走る」ではなく「シューズを履くこと」を目標にする。

それで気が乗らなければ、やめてもいいと決めておく。

一度シューズを履いてしまえば、大抵「そこまでやったんだから走ろう」となる、というわけだ。

シャワーを浴びるための「目標」を立てる

これをシャワーに応用してみよう。

例えば「部屋着を脱衣所に持っていく」とかどうだろう。着替えるついでにシャワーを浴びられるかもしれない。

もしくは「シャワーのお湯をひねる」なんかどうだろう。

特に冬は「寒くて服を脱ぎたくない」という気持ちがシャワーの面倒くささのもとだから、浴室を温めておくのは有効だと思う。

メリットを体感する(いちばん大事)

でも、一番のコツ(?)は、「帰宅即シャワー」のメリットを体感することだと思う。

冒頭にも書いたとおり、以前のぼくは「面倒で先延ばし→寝る時間になって慌てて浴びる」というパターンがお決まりだった。

当然、寝る時間も遅くなっていたのだけど、実践してからは、ほぼ同じ時間に寝られるようになった。

さらに、生活のリズムが規則的になってから、体調が良くなった。

いま日記を確認してみたら(日記つけてるんです)、これを始めてからぼくは風邪をひいていない。

たぶんだけど、これは無関係ではないだろう。

それから「いま浴びるか、あとにするか」と悩む、どっちつかずの無駄な時間が減ったのもメリットだ。

悩むストレスがなくなって快適になったし、自由時間が有効に使えるようになった。

自然とシャワーに足が向く

お気づきかもしれないけど、この方法は外出しない日には使えない。

でも、ぼくの場合は外出しない日も、わりとすんなりシャワーへ向かえるようになった。

きっと、いま述べたようなメリットを知ってしまったからだと思う。

シャワーを浴びるのが嫌いでも、シャワーを浴びたあとの状態が嫌いな人は、そういないはずだ。

明日からやろう

たかだかシャワーのタイミングひとつなんだけど、個人的にはちょっと感動するくらい生活が変わった。

これをお読みの方は、ぜひ明日の帰り道、

「脱ぐ、浴びる、着る……脱ぐ、浴びる、着る……」

と唱えながら帰ってほしい。

 

ぼくたちは習慣で、できている。

ぼくたちは習慣で、できている。

  • 作者:佐々木 典士
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

意見の対立を乗り越える 『はじめての哲学的思考』(苫野一徳)

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ネットをみると、みんなよく怒っている。

どうでもいい問題から、どうでもよくない問題まで、ギスギスした批判合戦を繰り広げている。

なるべく見ないようにしているのだけど、たまたま目に入るとしんどい。

それぞれに大事な想いがあって言っているのだろう。でも、もう少し、こう、別の仕方でできないものか……とも思う。

ネットのギスギスに哲学を

『はじめての哲学的思考』は、いがみ合いじゃない「建設的な対話」のための知恵が詰まった良書だ。

哲学はこれまで2500年間、答えの出ない問題にぶつかっては考え抜き、解決や納得に人々を導いてきた。

その思考法を分かりやすい言葉で教えてくれるのがこの本だ。

とてもいい本なので、多くの人に知ってほしいと思う。特に感心したところを紹介させてください。

 「共通理解」を見つける思考

哲学的な思考とは、どういう思考のことか?

一言でいうと「"共通理解"を見出す思考」と言えるだろう。

本書によれば、哲学とは、ある命題の「○か×か」を明らかにするものではない。

そうではなく、「共通理解」(意見の違う者同士でも納得し合える部分)を見出し合おうとする営みだという。

そもそも、物事を理論的に考えようとする限り、どんな主張も何かしらの矛盾や例外を指摘できてしまうと著者は言う。

つまり「絶対の真理」など存在しないのだ。

「絶対の真理」を探すのをやめ、できるだけだれもが納得できる「共通理解」を探すのが、哲学的思考だ。

哲学的な思考は、「不毛な対立」を「建設的な対話」に変えられる。

問いを立て直す

どうしたら、その建設的な対話ができるようになるのか?

本書を読むと、不毛な対立が続くときは、そもそも「問い方」を間違えているのだということに気づく。

この「問い」をなんとかするのが第一歩だ。

哲学の本領の半分くらいは「ニセ問題」を「意味のある問い」へと立て直すことにある、と著者は言う。

ニセ問題とは二項対立、「〇〇は××か」「Aか?Bか?」などの問いのことだ。

こうした問いに絶対に正しい答えを出すのが不可能なのは、先程説明したとおり。

では、ニセ問題を立て直すとどうなるのか?本書の例を見てみよう。

「生きる意味」を哲学的に問う

問いを立て直すとは、たとえば、

私たち人間が生きている絶対的な理由はあるのか、ないのか?

という二項対立の問いを

人間は、一体どんな時に生きる意味や理由を感じることができるのだろう?

という問いに変えるということ。

前者の問いで議論しているうちは、存在しない「正解」を求めて意見をぶつけ合うだけに終わってしまう。

後者の問いだと、「対立」の構図が、相互理解できる第三のアイデアを探る「協同」の構図に変わるのだ。

「対立」を「協同」に変える。これ、意見が対立するいわゆる現場で重要じゃないだろうか?

あの人にルールを守らせるには

とはいえ、われわれはつい「間違った問い」に陥りがちだ。

本書では、そうならないための哲学的思考のポイントを解説している。

すべては紹介できないけど、個人的に一番強く頷いたものを紹介する。

現代を覆う問題に、めちゃくちゃ効きそうな思考法だ。

条件解明の思考

それは、「条件解明の思考」と呼ばれる思考法。

「~しなさい」「~すべきだ」ではなく、「どうしたら~するようになるだろう?」と考える思考のことだ。

人間はしばしば「命令」の思想を持つ。自分や他人に「ルールを守れ!」というのもそうだろう。

しかし、繰り返しになるけど哲学的には「絶対の真理」などない。

だから、絶対にどんなときでも正しい命令はないと考える(「人を殺してはいけない」などですら)。

それに人間の意志は弱いから、実際問題として「命令」は守られないことも多い。

それなら「どうしたら人は~するようになるのか」と考えるのが、条件解明の思考だ。

「ルールを守れ!」という命令から「どうしたらルールを守ってくれるか?」というアイデアの出し合いへ。

使えそうなシーンが身近に思い浮かぶ人も多いだろう。

「徳の騎士」にならないために

これに関連して本書では「徳の騎士」という言葉が紹介されている。

ヘーゲルという哲学者の言葉で、自分の信じる正義を掲げて、それに従わない人を断罪する人を指すという。

ときにその行為は、「正義」の名のもとに他者を傷つける独善的な行為になる。

たとえば、「困っている人を助けないのは人間として間違っている!」などときつい言葉で批判すること。

大抵の場合、そうやって批判された人間は改心するどころか、逆に意固地になる。

それに、困っている人を助けられない事情が、それぞれあるかもしれない。

そこで「条件解明の思考」の出番がくる。

「人に思いやりを持て!」

ではなく、

「どうすれば人は人を思いやれるんだろう?」

と考える。

このほうがずっと建設的だし、実際に人を思いやれる人も、きっと増えるだろう。

今ほど、この言葉がしみる時代もない。

「その問いかた、あってる?」

意見が対立したとき、われわれは結局「人それぞれ」で済ませがちだ。

それで済めばマシかもしれない。延々と攻撃し合うことも多い。

そんな実りのない対立を乗り越えるのが哲学的思考だ。

対立するどちらか一方にでも、「その問いかた、あってる?」と問う姿勢があるだけで、見えなかった道が見えてくる。

感情的な議論から一歩引いて考えることは、自分のメンタルを守ることにもつながるだろう。

多くの人が身につけるといい考え方だと思う。

相手の粗ばかり探していても、みんなイヤな気持ちになるだけなんだから。

 

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)
 

 

「怒らない」のは無理 『アンガーマネジメント入門』(安藤俊介)

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できることなら怒りたくない。でもストレス源と無縁でいることは不可能だ。

ネットの心無い書き込み、ムチャクチャなこという客、苦手なあの人。

分かっちゃいるけど怒っちゃうのが「怒り」の困ったところだ。これはもう、どうにもできないのか?

怒りのコントロールは身につけられる

『アンガーマネジメント入門』によれば、怒りをコントロールする技術は、身につけられる。

アンガーマネジメントは企業研修やスポーツ選手のメンタルトレーニングなど、様々な現場で導入されている心理トレーニング。

本書はタイトル通りその入門書だ。

これを読んでから怒りと付き合うコツが少し掴めたので、特に参考になったところを紹介させてほしい。

 (どうでもいいことで)怒らない

アンガーマネジメントを身につけると「怒らない人間」になれるかというと、そうじゃない。

アンガーマネジメントは「怒らなくなる技術」ではなく「どうでもいいことで怒らなくなる技術」。

その名のとおり、怒り(アンガー)をマネジメントするのがアンガーマネジメントだ。

怒らないのは無理

本書の中で、著者は「『怒り』はなくせません。」と言い切っている。

怒りは動物の生存に欠かせない「本能」として人間に備わったものだからだ。

これは怒りを上手にコントロールするのに欠かせない認識だと思う。

多くの人は、怒りを感じたこと自体を悔いて「自分は心が狭い」などと落ち込んでないだろうか。

でも、怒りが湧くことは自然なことなのだ。

そこは自分を許していいと思うと少し楽になるだろう。

 怒りを生むふたつの仕組み

で、「怒りはなくせない」と認めた上で、その怒りをどうコントロールするか。

怒りの上手なコントロールには、まず「怒り」の仕組みの理解が必要だ。

 本書では、怒りが爆発する仕組みを

  • コアビリーフ
  • トリガー思考

というふたつのキーワードで説明している。

人はみな「価値観の辞書」を持っている

コアビリーフとは「信念」のこと。本書では「価値観の辞書」と表現している。

人間は、

  • 嘘をついてはいけない
  • 先輩の言うことは聞くべきだ
  • 客の要望は叶えられて当然だ

みたいな価値観をそれぞれに持っている。

この「辞書」に反する出来事に遭遇すると怒りを覚えるのだ(心当たりあるでしょう?)。

自分の辞書を校閲する

コアビリーフは誰にでもある。しかし、それが自分や他人を傷つける場合は、修正したほうが楽になれる。

自分のコアビリーフを「それは本当に、本当に正しいか?」と客観視するのがアンガーマネジメントだ。

もちろん、本書ではその具体的なやり方も紹介している。

大抵の場合、自分のコアビリーフは絶対的なものではないことに気づくだろう。

明らかに間違ってることとか、明らかに正しいことって、世の中そうそうないのだ。

(もちろん「人それぞれ」で済ませられないこともあるけど、日常での怒りについては、ね?)

人は「怒りのツボ」を押されると怒る

もう一つのキーワード「トリガー思考」は要するに「怒りのツボ」。怒りのきっかけになりやすい事柄だ。

足を踏まれても怒らないけど嘘をつかれるとキレるとか、そういうツボは誰にでもあるだろう。

ツボを自覚する

アンガーマネジメントでは、自分の「トリガー思考」を探ることも重視する。

ツボを押されても「これは自分のトリガー思考だ」と先回りして対処することができるからである。

個人的な実感としても、自分のトリガー思考を把握しておくことは重要だと感じている。

ツボ案件に遭遇しても「あーはいはい、これね......」と落ち着いて構えられるのだ。

怒らなくなるわけではない。でもこれを知っておくだけで、怒りとの向き合い方がだいぶ違う。

 咄嗟の衝動を抑える

とはいえ、怒りが湧いたとき、言い返したいという「咄嗟の衝動」を抑えるのも大変だ。

本書4章では「ムカッ」ときたときの対処法を紹介していて、これも参考になる。

いくつか紹介されているうち、おれがよくやるのが「コーピングマントラ」というテクニックだ。

これは怒りを感じたとき、自分を落ち着かせる言葉を自分に言い聞かせるというもの。

唱える言葉はオリジナルなものでもいい。本書では一般的な例として

  • 「大丈夫、なんとかなるさ」
  • 「1カ月後には忘れてる」
  • 「自分も、自分の感情もコントロールできる」

といったフレーズが紹介されている。

自分に「よしよし」しよう

ちなみに、個人的には「そうだよな、嫌だったよな」が鉄板である。

トリガー思考は多くの場合、過去の嫌な経験に由来する(おれもそう)ので、こう唱えて自分をなだめている。

要するに自分に「よしよし」しているのだけど、これがけっこう効くのだ。

「やり過ごしたるぞ」の境地

上手に怒りを処理できたときは、達成感があってうれしくなる。

ムカッとする出来事に遭遇したとき「よし、やり過ごしたるぞ」と思えたら、しめたものだ。

怒らないことの、少なくとも一部は技術なのだ。

身に付けておけば、怒りから身を守れるし、無駄に他人を傷つけることも減るだろう。

アンガーマネジメント、もっと普及すればいいなぁと思う。本当に。

 

アンガーマネジメント入門 (朝日文庫)

アンガーマネジメント入門 (朝日文庫)