きがるに書くログ

「マカロニグラタン」と同じアクセントです

「よき人生とは何か」とか「わたしはどう生きるべきか」とか考えちゃうよね

「幸福とは……」とか「人生とは……」みたいなテーマに興味があり、そういう本に惹かれやすい。ちょっと前に読んだ『私の生きた証はどこにあるのか』も「そういう本」だ。

ユダヤ教のラビであるH・S・クシュナーが著した本書によると、タルムードには、人にはその人生のなかで為すべきことが三つある、と書かれているそうだ。

「子をもうけること、木を植えること、本を書くこと」。言葉通りに受け取ってもそれなりに説得力がありそうだが、もちろん象徴としての話である。つまり、自分が世を去っても残るようないい影響を、世界に与えなさいということだ。

偉業によって後世に名を残せという話ではない。子供の成長を見守るとか、職場の若手を成功に導くとかといった、他人の人生にいい影響を与えることが大切だということである。そうやって「自分が生きたことで、世界は以前よりも好ましいものになった」と思えるようなことをすることが、人生に不可欠なこと(のひとつ)なのだ。

この部分を読んで、自分が寄付をし始めたときのことを思い出した(複数のNPOに毎月寄付をしている)。

2019年頃から「人生をより意味のあるものにしたい」「よい社会を作るのに貢献して自分の生きた証を(目に見える形でなくとも)残したい」などと考えて寄付を始めた。いま思うと動機が若々しすぎて顔が熱くなってくるが、本書の主張と響き合うところがあり、当時のおれはなかなか偉かったと思う。

もっとも、いまもその気持ちはある。ただ、その気持ちはいまは少し穏やかになったというか、熟(こな)れてきた感じがする。世界にいい影響を与えるぞ、などと意気込まなくても、その機会は日常にあるのだから。

人は生きているだけで何らかの形で他者に影響を与え、また、社会の形成にも関わっている。仕事やプライベートで誰かと関われば、自分が相手のなかに住まい、相手が自分のなかに住まい、それでそれぞれが人生をかたちづくる。普通に買い物をするだけでも、そのお金が誰かの給料になって生活を支えたりする。人は生きているだけで経済活動に参加している*1

このごろはそんな風に思うようになったものだから、昔ほど「生きる意味!」「生きた証!」みたいな感じではなくなった。「気楽に生きなさい、若いの」という気でいる。

ただ、影響と言っても、なるべく悪い影響は与えたくなく、そのためには「善く」ある必要があるのだろうと思う*2。ひょっとして、こっちのほうが難しい課題だろうか。世界に影響を与える機会が、むしろ避けたくなるほどある。

*1:投資信託ひふみ投信」のファンドマネジャー、藤野英人さんは「赤ちゃんがいるだけで経済が動いている」とも言っている。 

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*2:なにをもって「いい・悪い」というかは答えの出ない問題だろうけど、ここでは一般論として「人に喜ばれるのはいいことだし、悲しませるのは悪いことだよね」くらいのレベルの話をしている。