きがるに書くログ

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恵まれていることへの罪悪感をどうするか問題『うしろめたさの人類学』

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自分は恵まれすぎている、という罪悪感というか「負い目」というかが、ちょっとある。なにせ日本に生まれて普通に電気と水が使えるだけでラッキーだ(「相対的貧困」という言葉は知っているが一旦おいておく)。

そして貧しい国とか、外国に限らず大変なことになってる地域の人たちの生活を見聞きすると(「罪悪感」は言いすぎだとしても)居心地の悪さを覚える。

いや、そんな罪悪感を持っても仕方ないだろうとは思う。 おれが心を痛めても誰かの腹が満たされるわけではない。

一方で、その罪悪感はそんなふうに片づけていい感情なのか、という気持ちもある。これが「恵まれていることへの罪悪感をどうするか問題」である。

 

本書のタイトルの「うしろめたさ」とは、まさに「自分が彼らよりも不当に豊かだという『うしろめたさ』」のことだ。

人類学者による本で、著者のフィールドワーク先であるエチオピアと日本の社会の比較を通じて、格差や自己責任論といった社会問題との向き合いかたを考える本である。

後ろめたさという感情が、本書では肯定的に捉えられているのが面白い。

圧倒的な格差を目にしたときに感じる後ろめたさは、人々の倫理を呼び起こし、公正な社会へ向けての動きを促進する契機になる、と本書は主張する。

人との格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活性化させる。そこに、ある種の倫理性が宿る。

悔しさをバネにして頑張ることができるように、後ろめたさもポジティブな原動力になりうるのだ。

 

日本社会には「共感する力」を封じ込める力が働いている、という指摘も大事だ。

お金であらゆるモノやサービスが交換できる市場経済や、「困窮者を助けるのは国家の仕事、自分は関係ない」と、市場と国家の役割を強力に線引きする意識は、人と人とのつながりを省き、共感する力を覆い隠す。

このことに関して、エチオピアの「物乞い」ついての記述が印象深い。

エチオピアには物乞いが多く、現地の人々はよく物乞いにお金を与えている。他方、日本から来ている人々はあまりお金を与えることはないという。

エチオピア人の振る舞いからは、彼らが共感に心を開いているのがわかる。かならずしも「分け与えなければならない」という宗教的義務が強固だからではない。物乞いの姿を前にしたときにわきあがる感情に従っているまでだ。

エチオピア人やさしい、日本人つめたい」みたいな単純な話にはできないが、こういう話を読むと、人として健全な振る舞いとはなんだろうと考えてしまう。

 

個人的には、後ろめたさは「同調圧力」と表裏一体で、取り扱いには注意が必要に思える。だから「後ろめたさをカギに共感を」という議論には手放しでは賛成しない。

とはいえ、その後ろめたさに(ある程度は)素直に従う態度も、それはそれで大事にされるべきなのだ、たぶん。

なんにせよ、どうせ罪悪感を覚えたなら、変に理屈をつけて覆い隠すのでなく、いいことをする原動力に変えた方が前向きなのである。