きがるに書くログ

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幸せは「お金」じゃない……としたら、なに?『徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学』

ちょっと前から「徳」概念に興味がある。前に読んだ『人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門』に続いて、これも徳の本だ。

本書では「徳倫理学について」ではなく「徳そのものについて」論じられている。

また、伝統的に徳は「幸福」と深く関連づけて論じられてきたようで、「有徳であることはその人の人生を幸福なものにするか」という問題も論じられている。

徳そのものについての説明もよかったんだけど、幸福についての論もよかった。今回は幸福に関して印象に残ったところを書く。

 

本書では幸福を「エウダイモニア主義」と呼ばれる思想の立場から論じる。アリストテレスの昔から存在する、歴史ある思想だ。このエウダイモニア主義の幸福論がいい。

いわく、幸福とは「お金を多く持っている」とか「快楽を多く味わっている」とかではない。「健康」でさえない。

幸福とは、自分の人生に含まれる素材(富とか健康とか)をどう扱うかの問題である。幸福な人生とは、そうした素材を持っているならば、それらをうまく扱いながら生きる人生であり、持っていなかったり失われたのならば、それにうまく対処しながら生きる人生である。

つまり幸福を生むのは置かれた環境そのものではなく、そのなかで精一杯うまく生きることなのだ。

たしかに富や地位を持っていて健康でも幸せでない人はいるだろうし、「ただ単に楽しいだけ」では虚しいという感覚は多くの人にあるだろう。

一方、自分なりの目標や信念を持って生きる人生の「幸福」には、必ずしも外的な豊かさは関係ないはずだ。

ただし外的な豊かさが幸福にまったく関係ないかというと、その辺は論者によって意見の違いがあるようだ(あと、解説によるとエウダイモニア主義の幸福概念は、お金や地位などの「自分の力で変えられる要素」を積極的に変えようとすることを否定するものではない)。

個人的にはある程度の外的な豊かさは必要だと思うけれど、それでも幸福の源を自分の「外」よりも「内」に多く持っていることは、幸福にとって重要だと思う。その意味でエウダイモニア主義の幸福論には頷ける。

 

で、その幸福と「徳」(勇気とか気前のよさとか、そういう「行為や感情の傾向性」)とを結びつけるのが、エウダイモニア主義の特徴である。本書の立場は「有徳に生きることは、幸福に生きること(の一部か全部)を作り上げる」(339P)というものだ。

ここら辺は正直、分かるような分からないようなだったんだけど(おれの理解力のせい)、「有徳な人は幸福に関する考えを現にもっており、その考えはより有徳になるにつれてより明確なものになる」(269P)というところが印象に残った。

たとえば「勇敢さ」を習得しようとしている人が学んでいるのは「勇敢に行為すること」や「勇敢な人であること」の価値であり、それは「自分の人生にとって何が大事で何が大事でないか」という価値観の問題と無関係ではありえない(勇敢さを重んじるために「楽しく過ごすこと」を捨てることもあるだろう)。
(たぶんそういうことを言ってるんだと思う)

自分にとって大事なもの/ことが明確であること、その価値観(優先順位と言ってもいいかもしれない)にかなうように行為することが幸福につながるというのは、一般的な実感として説得力がある。クサい言い方だが「なりたい自分になる」というやつかもしれない。

 

もうひとつ、幸福は「こうなったら幸せ」という受動的で静的なものではなく、「よく生きる」という活動の中にある「動的なもの」であるという主張も覚えておきたい。幸福は「現在進行中の活動であり、一度達成すればそこで休むことができる静止した状態ではない」(250P)のである。ストイックでカッコいい(幸福論に「カッコいい」みたいな評価もどうかと思うが)。

前に読んだ徳の本↓

blah-blah-blah.hatenadiary.jp