「情けは人の為ならず」とは言うけれど 『思いがけず利他』
他人から親切にされると嬉しい反面、それが負担に思えることもある。「相手を喜ばせたい」という気持ちは「相手が喜ばないのが気に入らない」というコントロールの欲望と紙一重だ。
本書は「利他」の「押し付けがましさ」や「胡散臭さ」についての議論を通じて、利他の本質を問う。
いわく、利他の本質は「思いがけなさ」にある。
「相手のためになるか、ならないか」と考える前に「身が動く」「ついやってしまう」というふうで為される行為に、利他は宿る。
また、いくら与える側が「相手のため」と思っても、受ける側が利他として受け取らなければ、そこに利他は生まれない。利他は人間の打算を超えて、事後的に生まれるのだ。
このような考えに基づいて本書は、「コロナ禍」で注目を浴びた「合理的利他主義」への指摘を展開する。フランスの経済学者ジャック・アタリが主張した、利他主義についての考えだ。
自分が感染しないためには他人の感染を防ぐことが大事であるように、利他的な振る舞いは回り回って自分にメリットをもたらす。だから利他主義は「合理的な利己主義」なのであり、これが人類のサバイバルの鍵だと、アタリはいう。
これに対し本書は、「合理的利他主義」は「自分の行為を相手に利他として受け取るよう強要」することだと指摘する。
上に書いた通り、利他とは、受け手がそれを利他として受け取ったとき初めて利他になるものだ。利他として受け取られるかは、行為者本人の決めるところではない。
それなのに「合理的利他主義」は、自分の行為が利他として受け取られることを前提にして、それが結果的に自分に利益をもたらすと考える。
そこには自分の行為を利他として受け取るよう強要し、相手をコントロールしようとする欲望が含まれている、と「合理的利他主義」の危うさを指摘する。
たしかに、自分の利益を見越しての利他は「利他」と呼べないかもしれない。
けれど、世界は「利他」の「利己的な側面」を強調せざるを得ないところまで来ているんじゃないか、とも思う。
「コロナ禍」の混乱を思っても、例えば買い占めに人を駆り立てるものを、「良心」はどのくらい抑え込めるだろう。
いや、コロナ禍に限らずとも重大な社会問題は世界中にたくさんあるわけで、欲得ずくでもなんでも、行動を呼びかけないとまずい状況にまで世界は来ているんじゃないか。
企業の社会貢献活動だって、イメージアップでもなんでも、なにかしらの形で採算が取れないことには行われないだろう。そして、そういう活動が行われない社会よりも、行われる社会の方がいい(はずだ)。
利他から利己への転倒は、「思いやり」とか「やさしさ」だけじゃどうにもならないよ、という意識の表れだったりしないだろうか。
少なくとも「人類のサバイバル」を考えるとき、「欲得ずくの利他」は、なくてはならないように思う。
しかし先に触れた「危うさ」の問題は「そんなこと言っても仕方ないじゃん」で済ませていい問題には思えず、なるほど利他は難しい。