きがるに書くログ

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死の持つ「意味」が見えてくる 『生物はなぜ死ぬのか』(小林武彦)

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生物はなぜ死ぬのか。

「なぜって、そりゃ寿命があるからでしょう」と思うだろう。でも、そういうことじゃない。

そのさらに「なぜ」、つまり、なぜ生物には寿命があるのか、なぜ寿命は生物によって違うのか、といったことを生物学の観点から考える本だ。

本書によると、生物が死ぬことには「年を取ると体の細胞が老化して云々」みたいなこと以上の、積極的な意味がある。

それをここで詳しく説明するのは楽しみを奪うだろうし、うまく説明できる自信もないのでやらないけれど、死の意味は「変化と選択」のプロセスにあると著者は言う。

つまり、死や老化さえも「自然選択」によって得られた特性であるということだ。

自然選択説自体は科学に疎い僕もなんとなく知っている。 人間が二足歩行をするように進化したのは二足歩行が上手い個体が生き延びて効率的に子孫を残してきた結果である、みたいなアレだ。

ただ、それがまさか死ぬこととか老化することにも当てはまるとは思わず、「死」の捉え方が新鮮で面白かった。

本書を読めば死が怖くなくなる、というわけではないけれど、ただ漠然と怖いものであった死を、違った角度から見せてくれる。

 

本書は地球最初の生物の誕生から現在までの、「進化と絶滅」の歴史をたどりながらタイトルの問いに答えていく本だが、後半では未来の世界、AIとの共存について触れている。

人間よりも賢い存在になるであろうAIと、我々はどう付き合っていくべきか。

その中で、AIと人間の違いとして「死なないこと」を挙げるところが印象深い。

死なない人格と共存することは難しいです。例えば、身近に死なないヒトがいたら、と想像してみてください。その人とは、価値観も人生の悲哀も共有できないと思います。非常に進歩したAIとはそのような存在になるのかもしれません。

AIを「死なない人格」とみなすことで、「死ぬ人格」としての人間を見直す視点が生まれる。

「人間にできて機械にできないこと」は減り続けていて、その意味で両者の違いは曖昧になりつつある。

そんななかでは、人生の悲哀や喜びを人間と共有できることが、機械と人間の境目になるかもしれない。

そのために必要なのが「死」だとすると、「死」は人が人である条件の一つなのだ、きっと。
(もちろん、人間の感情を読み取って適切な言葉をかける機能をAIが持つことはできるだろうし、それに対して「いやいや、いくらその精度が高くてもそれは感情を共有したことにはならないでしょう」みたいな意見もあるだろうから、そんな簡単な話ではないとは思うのだけれど)

 

スタートレック』シリーズに、不死をテーマにした『Q1、Q2』(原題は"Death Wish")というエピソードがある。

(ちょっとネタバレ)不死の生命体が出てくるお話なのだけど、彼の世界の人々は、やることがなくなって、話す話題もなくなって、誰と会話をすることもなく無感情に永遠の時を過ごしている。

我々がこうなっていない理由の一つは、人生に限りがあるからかもしれない。

そう考えると、生物学的な必要からも、人生にタイムリミットを設ける大切さからも、やっぱり死には意味があるのだなと思う。

もちろんそれでも死ぬのは怖いけれど、生物が死ぬのは「仕方ない」ことではなく、「死ななくてはならない」のだという視点を与えてくれる一冊だった。