『ブッダのことば-スッタニパータ』読書メモ
ブッダの時代から現代にかけて、人間の社会が笑っちゃうほど変わったことは言うまでもない。
一方、人間そのものは笑っちゃうほど変わっていないことが、この本を読むとよくわかる。
大昔の言葉なのに、現代においても「よく生きるための指針」や「規範的な人間像」としてバッチリ当てはまっているのに驚かされる。それがブッダのすごさなのか、大昔から変わらない人間の愚かさなのかは知らないが(たぶん両方)。
「スッタニパータ」はブッダの死後にその教えを弟子たちがまとめたもので、仏教の聖典の中では最も古いものの一つだそうだ。
そんな大昔のインドのありがたい言葉を約2500年(諸説ある)も経ったいま、日本語で読んでいる。ふつうに買ってふつうに読んじゃったけど、よく考えるととんでもないことをしているな。
とはいえ、そんな歴史的な背景を踏まえた難しい議論などはできないので、かわりにいち俗人として素朴に「いい言葉だなぁ」と思った部分をメモとして書いておこう。
生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
座右の銘にしたいぐらいいい言葉。
ひとから尋ねられたのではないのに、他人に向って、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人々は語る。
自分の手柄とかを自分から人に言いふらさない人は品がいい。
かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交す。みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称讃されるようにと望んで。
「自分が称賛されるようにと望んで」。 他人を批判したがるひとの心には、この気持ちが隠れているにちがいない(我が身を振り返って)。
他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。
はい。
世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
物質的な欲望に振り回されず、簡素な生活をする生き方に憧れる。「こだわらず」というところがいい。
以上!