きがるに書くログ

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おれやあなたの優生思想 『新版 「生きるに値しない命」とは誰のことか ──ナチス安楽死思想の原典からの考察』

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胸の悪くなる話なので詳しくは触れないけれど、少し前に某有名人の生活保護受給者やホームレスの人たちに対する差別的な発言が問題になった。

その騒ぎの中で「優生思想」という言葉が持ち上がって、以前読んだ『新版 「生きるに値しない命」とは誰のことか ──ナチス安楽死思想の原典からの考察』のことを思い出した。

この本を読むと、優生思想は意外と「普通の人」の中にもあることがわかって、簡単な問題じゃないのだなと思う。

 

本書は安楽死を求める老人の声を取り上げ、その主張の中には「生きるに値する命」と「生きるに値しない命」を峻別する優生思想が含まれていると指摘する。

九十歳近い一人の老人はこう訴える。 「失禁や嚥下障碍が生じ、オムツを着けて寝たきりの状態になったら、生きていたくない。周囲の人や自分のことまで分からなくなったら、生きていても仕方ない。だから死なせてほしい。できればそうなる前に安楽死したい」

(中略)

老人の訴えは、根っこのところで相模原事件を起こした青年の信念とつながる。訴えの前提には「老人(自分)は役に立たない」という考えがある。これを一般化すると「役に立たない誰かがいる」という能力差別の考えになるからだ。

この「老人」の意見に理解を示す人はそれなりにいるだろう。少なくとも「ホームレスはホニャララ」よりは多いはずだ。

この本を読むまではおれも、安楽死も一つの選択肢としてあった方がいいのかな、なんて漠然と考えていた。

しかし、だ。

「自分が役に立てなくなったら」という考えは「役に立てなくなった人間は」という考えに変わってしまうのだ。

過激な思想を持っているわけではない「普通の人」にも優生思想が潜んでいるとしたら、優生思想を乗り越えるには「優生思想はいけない」と言うだけでは不十分だろう。

自分の中にも優生思想がないか、自分にも優生思想的な考え方を向けていないかを見つめる必要があるのだ。他人への思いやりと自分への思いやりは、思いのほか分かちがたく結びついている。

 

とはいえ、安楽死なんてとんでもない、と他人には言えても、自分にも同じことが言えるか。案外こっちの方が難しい。

自分が先述の「老人」のいうような状態になったとき、それでも安楽死を求めずにいるのは、たぶん、みんながみんな当たり前にできることではない。

だからやっぱり簡単な問題ではないのだけど、いずれにせよ「貢献」だの「有意義さ」だの「生産性」だのを大事にしすぎるのも考えものだと思うのだ。