悲しいときは悲しんでいい『ブッダが説いた幸せな生き方』
なにを幸せと感じるかは人それぞれだけど、金をたくさん稼いでたくさん贅沢するよりも、贅沢はできなくとも穏やかで落ち着いた生活を送るほうが幸せだと、おれは思う。
同じように感じる人には、ブッダの教えは本書の言うとおり「幸せのレシピ」かもしれない。
タイトルの通り、ブッダが説いた幸せな生き方を紹介する本だ。
本書によると、日本でのイメージとは違い、本来の仏教の教えは決してマイナス思考だったり虚無的、厭世的なものではない。
たしかに「この世は無常だ」的なことは言うけれど、それは「だからこそ生きている時間を大事に生きよう」という感じの、あくまで前向きな考えなのだ。
ブッダが説く「物事をあるがままに受け止めて、何事にも執着しない」みたいな生き方には憧れる。実践は簡単でないけれど、そんなふうに生きられたら身軽でいい。
本書の内容を詳しくまとめることはしないけど、代わりにとくに印象に残ったところを挙げる。
ブッダは晩年、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナという二人の愛弟子を亡くしているそうで、そのときに述べた言葉だ。
「出家修行者たちよ、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナが逝ってから、私にとってこの集いはまるで空虚になってしまった。あの二人の顔が見えない集いは、私には寂しくてたまらない」
そのすぐあとに「この世にうつろわないものは何もない。これが世の理(ことわり)である」という旨の言葉が続くのだけど、おれとしては「寂しくてたまらない」とごく素直に述べているところが心にくる。
ブッダもひとりの人間だったのだ。悲しいことが起きた時に悲しまないでいることは、ブッダにもできない(ちなみに本書では仏教の特徴の一つとして、開祖が「自分は人間以上の存在である」と主張しなかった点を挙げている)。
思うに、強くあるということは「傷つかないこと」ではなく「傷ついていることを認められること」なのではないか。
傷ついているのに傷ついていないかのように振る舞う「臭いものに蓋をする」態度は気丈に見えるが、かえってストレスがかかる。
一方、塞いだ心のうちを人に話すだけで、もしくは文章にするだけで、直接的な解決は得られなくとも気持ちの整理がついたりする。
ひとが傷つきを認めるとき、それと同じことが起こっているのではないかと思う。
自分の内面と向き合い自分を客観視することで初めて、周りの状況が見えてくるなり諦めがつくなり、状況に対処する心の準備が整い……。
……って、そんなメカニズムをブッダが説いたわけではないんだけど、なんにしろブッダでさえそうなのだと知っておけば、悲しい出来事に見舞われても安心して悲しめる(かもしれない)。
本書の内容から話が逸れたが、ともかくそんなことを思ったのである。心穏やかに生きたいですな。