お金を「送りたくない」団体への寄付にも意義がある?
超・当然のことをいうけれど、寄付をするときは「ここにお金を送りたい」と思う相手(慈善団体なり自治体なり)に送るものだ。「強制的な寄付」みたいな話は別として、寄付する相手について多かれ少なかれ調べたりしてから寄付をするのが普通である。
……なのだけど、「そうじゃない」寄付にも、ある種の意義というか可能性というかがあるかもしれない、と思わせる対談の動画を観たので、そのことを書く。
福岡県の北九州市に、困窮者支援活動をしている「抱樸」というNPO団体がある。
その抱樸のYouTubeチャンネルでは、理事長の奥田知志(おくだ ともし)さんが、各界からゲストを招いて対談をする番組を配信している。
この奥田さんが、深くて真面目な話を堅苦しくなく話すかたで、おれはちょっとだけ奥田さんのファンである。それで抱樸の対談動画をたまに観ているんだけど、2022年12月26日の回が面白かった。
この回のゲストは「新しい贈与論」という一般社団法人の代表理事の桂大介さんだ。
「新しい贈与論」がどういう活動をしているかというと、(ごく簡単に言えば)会員から集めた会費を毎月、会員による投票で決めた寄付先に寄付をする、という活動をしている。「ひとりで」ではなく「みんなで」寄付をする活動である。
寄付先の候補は毎月三団体立てられ、その中で最も票を得た団体に寄付金を送る。送り先は一位の団体だけだから二位、三位に投票した人からすれば「お金を送りたくない」団体にお金が送られてしまうわけだけど、そこにポイントがある。
それによって、ひとりで寄付をしていたら選ばないであろう相手が寄付先になる。そしてお金を送ると、相手のその後が気になるようになるのである(「自分で選べない寄付」をしたことはないけれど、確かにそうなるのかもな、という想像はつく)。
偶然の出会いによって、それまで関心外だったことが関心外でなくなるということだ。これは「興味関心がある分野の団体から選んで寄付をする」という「普通の」寄付にはない種類の「広がり」である(もちろん「普通の」寄付も必要だし、対談の趣旨もそれを否定するものではない)。
これが対談のタイトルの「『私』に穴を開ける」という言葉が表現していることで、「自分と関係のないことなんか知らない、関わりたくない」みたいな他者への無関心、(悪い意味で)自他をカッチリと分ける区切りに「穴を開ける」可能性を、偶然の出会いは(あるいは「必ずしも自分の意志通りにならない寄付」は)秘めている。
たしかにそう考えると、「普通の」寄付は計画的で、どこか「穴が開かない」ところがあるのかもしれない。これまでの寄付観を揺さぶるような話で、なるほどなーと感心した。寄付は奥が深い*1。
ほかにもこの対談では、「コスパ」という概念についてとか、すべての人間は多くのものを与えられて生きているという話とか、寄付をすることの居心地の悪さといったトピックを巡るやり取りが示唆的で、頷いたり唸ったりすることが一度ならずあった。
抱樸の対談動画はいくつか観ているけど、やはり奥田さんの言葉は実践や実感がこもっているからか、深みというか説得力というかがあって好きである*2。