きがるに書くログ

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キリスト者が問う「神がいるなら、なぜこの世に悪があるのか?」などなど 『宗教を「信じる」とはどういうことか』

某所で本書を「好著」と評したレビューがあるけれど、その通りだと思う。信仰のない人間が「宗教」に抱きがちな疑問が解決……こそしないものの、宗教に対する考えが深まる本である。

特別な信仰がない人間にとって、宗教はよくわからない存在だ。「『信じる者は救われる』なんて言うけど、信じてたって救われないことあるよね?」とか「『神様はいます』って言うけど、その割に世界中でひどいこと起こってるよね?」とか思ったりする。

本書は宗教学者でありキリスト教徒でもある著者が、そうした疑問に向き合う本だ(なので本書で論じられる「宗教」とは主にキリスト教のこと)。

疑問に「答える」でなく「向き合う」が正しいだろう。「わからなさ」を再確認するような議論が続く。これが答えだ、という「正解」が得られる本ではないが、こうした問題には誰もが満足できる答えはないから、明確な正解を示さないほうが誠実な態度だと思う。

 

「神がいるなら、なぜこの世に悪があるのか」問題については、「神は全能ではない」「神が与えるのは困難を乗り越える勇気や忍耐力である」とするユダヤ教のラビ(教師)、ハロルド・S・クシュナーの議論の紹介が印象に残った。現にさして悪人でもない人にも理不尽な不幸が降りかかる現実を生きる我々の感覚に、よく合致した見方だと思う。

とはいえ神義論(神の存在と悪の存在を巡る議論)には、このクシュナーの立場以外にもいろいろな立場があり、決着を見ていないらしい。「悪に関する問題の答えが『まだわからない』のだとしたら、それは要するに、どういう神を信じているのか自分自身でもよくわかっていないということに他なりませんから、それではそもそも『信じる』という行為になっていないのではないか」という著者の見解に頷く。

 

聖書からの引用ではパウロ(初期キリスト教のえらい人)が恩義のある友人と喧嘩別れをしたエピソードが印象深い。教義としては「愛し合いなさい」とか言うけれど、パウロでさえ友人と大喧嘩をするのである。

宗教という営みは案外人間的な、つまり人間によるものである以上は矛盾を生まざるを得ない営みなのだろう。「本当の愛とは敵をも愛する泥臭いものであり、だからこそイエスは『互いに愛し合いなさい』と命令したのだろう。人間にとって愛とは命令されないと取り組めないことなのだ」(要約)という著者の指摘は大事だ。

宗教の教えや信徒の矛盾を指摘することは簡単だけれど、そもそも宗教の実践とは規範と現実のギャップを、つまり自分の至らなさを認めて、そのうえで、より善い人間になろうと努めることなのかもしれない。

なんにせよ、冒頭に挙げたような疑問は、もっともではあるのだろうけど、実際はもっと複雑で奥行きのある問題なのだ。勉強になった。

P.S. 本書に次いで、先述したクシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか: 現代のヨブ記』を読んでいる。読みたい本が増えるのはいい本だよね。