きがるに書くログ

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ストレスや困難への対処法の「答え」は、もう出ているのでは? という話

なににつけても、「こうするのが正解!」みたいな答え(もしくは真理)に簡単に飛びついてはいけないのだけど、「ストレスや困難には、どう向き合ったらいいのか」という問題に対しては、すでに一定の答えが出ているのでは、と思っている。

先日の記事で感想を書いた本『宗教を「信じる」とはどういうことか』で言及されていたH・S・クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか: 現代のヨブ記』を読み終えた。

著者のクシュナーは本書の中で、人生を襲う苦しみや悲しみに対しては「なぜ、この私にこんなことが起こったのか?」ではなく「現状はこうなのだ。私は、これからなにをすべきなのだろうか」(219ページ)と問うべきだと書いている。

この部分を読んで、ストア哲学っぽいなと思った。ストア哲学の「自分に変えられないことには悩まず、自分に変えられることに力を注ぎなさい」みたいな教えに通じるところがある。

たとえば古代ギリシャの哲学者エピクテトスはこう言っている。

われわれの力の及ぶものは、最も善いように処理しなければならないが、力の及ばないものは自然のままに扱うようにしなければならないということだ。

(『語録』第一巻第一章)

 

この「変えられることにだけ力を注ぐ」という態度こそ、困りごと(大きなものであれ、小さなものであれ)に対処する際の心構えの「答え」じゃないかと思っている。実はこうした考え方は、古今東西あらゆる時代と場所で人々の心を支える、普遍性のある人生訓だ。

たとえば『宗教を「信じる」とは~』でも紹介されている「ニーバーの祈り」(二十世紀の神学者ラインホルド・ニーバーによる祈りの言葉)なんかは有名だ。この祈りの言葉は、アルコール依存者の自助グループであるAA(アルコホーリクス・アノニマス)の会合などで用いられているという。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与え給え。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与え給え。アーメン」

『宗教を「信じる」とはどういうことか』第二章

それから、何年か前に読んだアンガーマネジメントの本には、ストレスを「自分で変えられること」と「自分で変えられないこと」に分類しましょう、と書かれていた。現代の心理トレーニングへの応用の例といえる。

ストレスと感じても自分ではどうにも変えることができないようなものであるならば、現実にはそういうことがあるということを受け入れて、他のことを考えることに時間を使いましょう。
あなたには、変えられることはほかにもたくさんあります。

『アンガーマネジメント入門』第5章

別の本ではダライ・ラマが「あなたは祖国から亡命させられたのに、なぜ悲しまないでいられるのですか」と聞かれて、八世紀の仏教僧、寂天の言葉に言及している。

「なんらかの悲劇的な状況に陥った際、悲劇を避ける方法がないなら、悩んでも無駄である。そう彼は教えてくれました。私はそれを実践しているのです」。ダライ・ラマが言及しているのは八世紀の仏教僧、寂天(Shantideva)である。彼はこのように書いている。「もしもある状況に関してなにかがなされうるとすれば、落胆する必要はあるだろうか? もしもなす術がないとしたら、落胆することに、どんな益があるだろう?」

『よろこびの書 変わりゆく世界のなかで幸せに生きるということ』「なぜあなたは悲しんでいないのですか?」

 

「世の中のすべてが自分の思い通りになるわけではない」とか「過去は変えられない」というのは動かしがたい事実だから、こうした対処法が時代も洋の東西も問わず普遍性を持つのは、もっともだ。それなら「変えられる」事柄に力を注ぐしかない。

これを心に刻めば「ストレスへの対処法」みたいな本も人生論的な本も、読み漁る必要はないだろう。大小あらゆる困難に向き合う際の「型」として覚えておきたい。

もちろん実践することこそが難しく、実践できるようになりたくて、本を読めば実践できる人間になれると勘違いをして、人は(おれは)また同じような本を読み漁るのだけど……。