きがるに書くログ

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なんでも「いい練習」と思えれば最強 ~役に立ってるストア哲学の言葉~

珍しいことに、このごろ人間関係でストレスがあり、イライラすることが多い。

いや、どう考えてもそんなに大した話じゃないのだけど、それでもイヤなものはイヤというやつで、当該の相手と顔を合わせる日は、ちょっとだけ憂鬱だ。

「慢性的にイライラする」ということがここ数年ほとんどなく、ひょっとしておれは穏やかな人間なのではと思っていたけど、なんのことはない、ストレスのみなもとが側になかっただけである。

とはいえヤダヤダばかり言ってもいられず、うまいことやっていくしかないんだけど、こういうときに役に立っている言葉がある。ちょっと前に本で読んだ、古代ローマの哲学者セネカの言葉だ。

善き者は、何であれ起きることの意義に思いを馳せ、それを善に変える。肝要なのは、何をではなく、どのように耐えるかだ。

セネカ『摂理について』二章)

自分の身に起きたことには、それがなんであれ意味がある。困難でさえ自分を鍛えるチャンス、自分のもつ能力を発揮するチャンスとみなしなさいと、セネカはいう。

セネカは「ストア派」と呼ばれる哲学者のひとりに数えられる。ストア哲学は紀元前300年頃、ギリシャで誕生したとされる*1哲学の学派のひとつで、「ストイック」という言葉の語源でもある。上で引用した言葉も、まあストイックである。

 

ストア哲学、ちょっと暑苦しいというかストイックすぎるよ、とも思うけど、基本的には好きである。「嘆いていたって仕方ないんだから置かれた状況でやるべきことをやりなさい」みたいな教えで、前向きで建設的な考えに切り替えさせてくれる。

セネカは(というかストア哲学は)困難を「神が与え給うたもの」と見ているけれど、特別な信仰がなくてもこの考えは強力だ。困難も「いい練習」と思えれば「しめたもの」で、多くの場合、不貞腐れているよりは、なにかしらの意味を見出して前向きに取り組むほうが上手くいくものだ。

 

とはいえ、自分の気持ちに鞭打っていることには変わりなく、セネカにはなれない(おれのような)普通のひとが傾倒しすぎると、ちょっと危うい考えでもあると思う。

困難との向き合い方として有効だとは思うけれど、限度を超えないとか、努力や忍耐の方向性を見極めるとか、そういう目配りを忘れない限りで有効、と言ったほうがいいかもしれない。「困難を乗り越える」は、必ずしも「歯を食いしばって耐える」ではないだろう。

そしてその案配こそが難しいのだろうけど、まあやっていくしかないですわな、という感じである。

引用した『摂理について』はこの本に収録。

(余談も余談だけど、『怒りについて』の中で「疲れた目には緑色が効く」と書いてて驚いた。古代ローマ時代から……!)

*1:マッシモ・ピリウーチ『迷いを断つためのストア哲学』2章