きがるに書くログ

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哲学者は「差別」と「区別」をどう区別しているのか?『差別の哲学入門』

ひょんなことから「差別」について考えてみるか、と思い立って(経緯の説明が雑!)読んだ。ためになる本だった。

 

タイトル通り、差別について哲学的に考察する「差別の哲学」の入門書である。

差別の問題で難しいのは「(不当な)差別と(不当でない)区別の違い」だろう。本書では差別を考える際の出発点として、アイデルソンという哲学者の議論を参照し、「人々の間に何らかの特徴に基づいて区別をつけ、その一方にのみ不利益を与える行為」を悪質な差別としている。

↑図。たとえば街中で友達だけに挨拶するのは「単なる区別」、男女で更衣室を分けるのは「特徴に基づいた区別」、くじ引きで外れた人には景品をあげないのは「不利益を与える区別」というわけだ(この分類にきれいに当てはまらないケースも、もちろんある)。

「差別の哲学」の分野には「差別はなぜ悪いのか」という問いに対して代表的な説が4つある(心理状態説、害説、自由侵害説、社会的意味説)。

それぞれについて当記事で詳しく解説はしないけど、差別という問題を哲学者はどうやって考えているのか、その枠組みを見ているようで勉強になる。

 

とはいえ、上に挙げた4つの説はどれも一長一短というか、どの説を採っても「それだとなんでも差別になるだろ」とか「それだと悪気がなければなんでもアリになるだろ」とか、いわゆる「拾いすぎ」と「拾えない」の問題があるらしく、難しい話である。

この「拾いすぎ」と「拾えない」の問題について印象に残ったところを引用しよう。

よく考えれば差別とは言えないものを、かたちだけの類似性から差別だと即断してしまうと、なんでもかんでも差別だという結果になり、「差別」という概念が空洞化したり、本当に悪質で反対すべき差別がどれであるかわからなくなってしまったりします。のみならず、本来差別ではないものを差別として扱ってしまうと、そうした差別でない行為への適切な対処も見失われかねません。

差別はいけないからといって、何でもかんでも「差別」と呼ぶと、本当に悪いことを悪いと言えなくなる。意図的に「差別」を「区別」に「引き下げる」ような主張にも飲まれてしまうだろう。だから「よく考える」ことが必要で、本書はその手がかりになる。

 

難しい言葉があまり出てこないのがありがたい。具体的な事例も豊富(とはいえ障害者差別はほとんど取り上げられなかった、と終章で述べられているが)で、

  • アファーマティブ・アクション」や「女性専用車両」と「逆差別」
  • 統計的データに基づく差別は「事実だから仕方ない」のか
  • 「反差別主義者を自認する人でさえ、無意識のうちには潜在的な偏見が備わっている」という心理学の実験結果(そういう実験結果がある)との向き合い方

といったトピックが取り上げられている。こういう問題にモヤモヤしたことがある人は読むといいと思う。ためになる本ですよ、これは。