きがるに書くログ

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「意味のある人生」は可能か?『それでも人生にイエスと言う』(フランクル)

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最近柄にもなく「人生の意味」について考えていて、先日感想を書いた『仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える』の関連で読み始めたのが本書である。

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著者のV.E.フランクルナチス強制収容所を生き延びた経歴を持つ心理学者だ。

この本は強制収容所からの解放翌年に行われた彼の講演を本にしたもので、収容所での経験や人生の意味について語っている。

巻末には訳者による解説付き。巻末といっても後半の3割くらいを占めるボリュームがあり、フランクルの思想のあらましが分かるようになっている。

この本を読む前に著者の代表作『夜と霧』も読んだのだけど、やっぱりこの人の、困難に毅然と向き合う思想の力強さには頭が下がるばかりだ。

もっとも、「生きることとは自分自身の人生に責任をもつことである」なんて書いているのを読むと、ストイックすぎてちょっと重いなーと感じたりもするのだけど……。

 

この講演でフランクルは、人間はどんな状況にあっても人生に意味を与えることができると話す。

その中で、彼の患者であった「ある男性」の話を引き合いに出すくだりがあるだけれど、ここが個人的には一番のハイライト。

全部は引用できないので要約するとこんな感じの話だ。

多忙な広告デザイナーだったその男性は充実した職業生活を送っていたが、あるとき重度の脊髄腫瘍を患う。

手足が麻痺状態になり仕事が続けられなくなった彼は、仕事の代わりに病室で猛烈に本を読み、ラジオで音楽を聴き、他の患者と会話を交わすことで、自分の精神的な世界を充実させた。

ところが病気はさらに進行して、彼は本を読むこともできないぐらいに衰弱し、とうとう自分の命があと数時間しかないと悟るまでに至る。

その状況で彼は、回診に来たフランクルを呼び寄せてこう頼んだ。

「午前の病院長の回診のときに聞いて知ったのだが、G教授が、死ぬ直前の苦痛を和らげるため、死ぬ数時間前に私にモルヒネを注射するように指示したんです。だから、今夜で私は『おしまい』だと思う。それで、いまのうちに、この回診の際に注射を済ましておいてください。そうすればあなたも宿直の看護婦に呼ばれてわざわざ私のために安眠を妨げられずにすむでしょうから」

この男性は自分が死ぬ間際になっても他者への思いやりを忘れなかったのだ。

本書では他にも困難と向き合う人たちの姿が描かれていて、その度に我が身を振り返らずにいられない。

 

フランクルの思想によれば、人間は「三つの価値」によって人生に意味を与えることができる。

一つ目は何かを創造したり自分の仕事を実現することで生まれる「創造価値」。

二つ目は何かを体験すること、自然や芸術や人間を愛することによって実現される「体験価値」。

三つ目は逃れられない苦悩から目を逸らさずに、それを引き受けることで実現する「態度価値」だ。

先述の男性は、病気になる前は仕事をすることで「創造価値」を実現し、病気になってからは読書などに励むことで「体験価値」を実現した。

そして仕事も読書も病気に取り上げられても、死を立派に引き受けることで「態度価値」を実現した。

このように、人間はまさに死ぬ間際まで人生に意味を見出すことができると、フランクルは言うのだ。

 

しかしこの思想には、意味というものの意味を突き詰めて考えると必然的に行き当たる「問い」がある。

その問いとは「世界は全体として意味を持ち得るか」という問いである。

さきの「三つの価値」によって人は人生に意味を与えられる。でも、そもそも我々の生きる世界それ自体に意味はあるのか?

たしかに、もしなかったら、その三つの価値の存在なんかも疑わしくなるだろう。

これに対する答えとしてフランクルは二つの可能性を挙げる。

ひとつは「すべては全く無意味だ」という可能性、もう一つは「世界はその全体の意味が捉えきれないほどの意味、つまり『超意味』をもつ」という可能性。

どちらの可能性も論理的な証明は不可能で、我々はどちらを選ぶかを決断することができる。

そして「超意味」を信じることを決断すると、それは実現するのだとフランクルは語る。

この「超意味」について解説することは僕の手に余るけど、いくぶん宗教的な思想と言えるだろう。巻末の解説でも、フランクルの思想に宗教的な根底を見出している。

 

冒頭にも書いた通り、フランクルの力強い思想には惹かれるものがある。

だけど話が信仰の領域に及ぶと、特定の宗教を持たない僕としては素直に頷けないのが正直なところだ。

当たり前と言えば当たり前だけれど、「生きる意味」という問題は突き詰めて考えると「現実」の領域を越えざるを得ないのだろう。

そこに信仰の「効用」(と言ったらバチが当たるかな)があるのかもなと思う。

ともあれ、人間はどんな状況にあっても生きる意味を人生に与えられる、という主張には元気づけられる。

信仰がなくとも、困難に対しても毅然とした態度をとることは人生への満足を生むだろうし、その満足こそが「人生にイエスと言う」のに必要なのだろうな、なんてことを思ったのでした。