落語のオチ、やっぱりつまらないよね?『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』
去年の暮れごろから落語を聴き始めて、まだ飽きずに聴いている。
聴きはじめのころに戸惑ったのは、オチが、えーと、オチがつまらないのだ。
そもそも意味がわからないオチもあるし、わかっても本当にしょうもないダジャレで終わるものも多い(『孝行糖』は衝撃だった)。
いまでは慣れたというか、「そういうもの」として聴けるようになったけど、それでも「これがオチか……」みたいな気持ちは正直ある。
落語のオチがつまらないことについて、納得できる説明をくれたのが本書だ。
見出しがいい。「面白くない落ちがあるのはなぜ?」とか「面白くない落ちでみんなが笑うのはなぜ?」とかがある。
本書に言わせてもやっぱり落語のオチは面白くないものが多いようで、『三方一両損』という噺に至っては「話全体を通して落ちがいちばん面白くないかもしれません」とも。
しかし、落語のオチで大事なのは、それ自体の面白さではなく「話をどこでも終わらせることができる」という「機能」なのだという。
つまりオチとは「はい、ここで終わり」という「きっかけ」のようなものだ。オチを言ったら終わり、これが落語のルールである。
落語のオチは「話を終わらせる機能」を果たすことが大事であり、面白さはそれほど重視されていない。だから「面白いオチ」を期待していると肩透かしをくらうのだ。
わかったような、わからないような。どうしてオチ自体の面白さを度外視してまで、その「機能」とやらが大事なのか?
そこを論じているのが本書の面白いところだ。
本書に言わせれば、その「機能」こそが落語の「大変な長所」である。
どういうことかというと、「どこでも終われる」ことで落語は「起承転結」や「序破急」といった、物語の「型」から自由になる。
型に縛られなくなることで、結末など気にせず、話の面白いところを膨らますだけ膨らますことができる。
小説や映画など、他の形式の物語では結末を用意しようもない、つまり破綻とみなされるような荒唐無稽なストーリーが可能になるのだ。
「広げた風呂敷をきれいに畳んで終わる」という、一般的な物語の約束に収まらない噺には「落語にしかない文学性」がある。それを可能にしているのがオチであり、だから「落語はオチが命」なのだ、と本書は言う。
実際はそんなに荒唐無稽な話ばかりでもないように思うが、やっぱりというかなんというか、要は落語とは「オチまで」を楽しむものなのだろう(「全部が全部」ではないが)。
本書に出てくる『質屋蔵』を、あらためて聴く。
権太楼さんの『質屋蔵』は旦那の長話や定吉と熊さんのやり取りがほんとに面白い。それこそ「膨らますだけ膨らます」という感じで、これを聴くと、より本書の論が腑に落ちる。
そしてオチは間違いなく全体を通していちばん面白くない。どう考えても「オチまで」を楽しむほかなく、素直にそうすればいいのですよ、うん。