きがるに書くログ

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保守主義から謙虚さを学ぶ 『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』(宇野重規)

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先日読んだ『Weの市民革命』は、マイノリティの権利の向上などを求める「リベラル」の人たちが主人公の本だった。

blah-blah-blah.hatenadiary.jp

じゃあ、その反対の「保守派」というのはどういう思想なんだろうと気になって本書に手を伸ばしてみた。

なにせ『Weの市民革命』ではBLM(Black Lives Matter)支持を表明したナイキへの抗議としてナイキ製品を燃やしたりしている(極端な人たちの行動なのは分かるけれど)。

ぼくは本当に政治がわからぬので、漠然と「変化を嫌う」「外国人に対して厳しい」くらいの印象しかなかったのだけど、どうやらそういう理解では単純すぎるようだ。

 「変化を嫌う」思想ではない

本書はタイトルの通り保守主義について解説した本だ。

本書を読んですぐ、先述のぼくの保守主義に対するイメージはだいぶ間違っていたことがわかった。

本書によると保守主義は18世紀英国の政治家エドマンド・バークを「本流」とし、

①具体的な制度や慣習を保守し、②そのような制度や慣習が歴史の中で培われたものであることを重視するものであり、さらに、③自由を維持することを大切にし、④民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革を目指す。

という点を特徴とする。

保守主義は「変化を嫌う」思想ではない。むしろ変わることを厭わない。

それまで続いてきた制度や慣習に基づいた「秩序ある漸進的改革を目指す」思想なのだ。

反対に、過去との連続性を無視した急進的な改革が、保守主義の批判の対象になるらしい。

人間の「理性」を疑う 

そんな保守主義の思想のなかで、とくに印象に残ったのが「理性」に懐疑的なところだ。

理性を疑うというと、とんでもなく頭の悪いことに思えるが、そうではない。

そもそも、保守主義は「進歩主義」という思想を批判する立場として生まれた。

進歩主義とは、人間の本能ではなく「理性」を駆使して、合理的に社会を変革できると考える立場だ。

そこには「人間の知は無限で、すべてを合理的に判断できる」という前提がある。

これに対して保守主義は、人間は不完全な存在で、すべてを合理的に判断できるなんて「おごり」だと考える。

だから理性的かつ合理的(と人間が考える)判断のもとに社会を改革しようとしてはいけないというのだ。

「偏見」の役割

では、理性が信頼ならないなら、どうしたらいいのか?

先述のバークは、社会を保存・改良するためには理性でなく「偏見」や「習慣」を利用すべきと説いた。

偏見だなんて、これもまた首を傾げそうになるが、つまりこういうことだ。

バークに言わせると、人間の理性には限界があるから過信してはいけない(理性そのものは否定しない)。

一方、偏見や迷信と呼ばれるものの中には、歴史的に蓄積された経験が反映されていることが多い。

その中の有害な部分を取り除き、有効な部分を活用しよう。

そうやって、限界のある理性を経験的な蓄積で補完しようというのがバークの保守主義だという。

こう見ると、保守主義というのは「頑固」というよりは「堅実で現実的」な考えなのだと分かる。

「自分は間違っているかもしれない」

本書はこのバークからスタートして現代へと保守主義の系譜をたどるのだけど、やはり現代に言及した部分が「自分ごと」として考えやすい。

本書によると現代では、それまで続いてきた「進歩主義 vs 保守主義」という図式がゆらぎつつあるという。

というのも、進歩主義が掲げる「進歩」の理念が、楽観的には信じらなくなってきたからだ。

たとえば科学の進歩にしても、そのマイナス面(環境問題とか)がよく注目される。

進歩主義が力を失うと同時に、それを批判する保守主義も批判する相手を見失いつつある。

そんな「未来が見えない」時代に、保守主義の「自分は間違っているかもしれない」という謙虚さが英知になり得るだろうと著者は言う。

たしかに、行動経済学や心理学などの分野で、人間の判断の不合理さが明らかになり始めている。

「理性の限界」という話は、昔よりもいまのほうが説得力があるのではないか。

答えのない時代だからこそ、「合理的な」判断を疑い、地に足のついた選択を重ねる。

自分自身が保守主義者になるかどうかは別として、学ぶところは多そうだ。